28.籠の中の鳥

昼時の喧騒をやり過ごし、早苗は一人、自室に戻った。窓を開けると鈍色の空が広がっていた。ここ数日は日差しも弱々しく、寒さも日に日に増している。冬の足音が少しづつ近付いてきているのだ。

そのまましばらくぼんやりと外の様子を眺めていると、ドアの向こうから声が掛かった。
「おかみさん、客室の掃除が終わりました」
声の主は葉子だった。
「ご苦労様。それじゃあ、すっかり遅くなってしまったけど、みんなでお昼ご飯にしようかね」
はい、と軽い調子の声が返ってきた。
不意に、初めて葉子と会った時の怯えた様子を思い出し、思わず安堵のため息が零れた。

食堂に着くと、蘭がテーブルセッティングを済ませ、大樹がそれぞれのお皿に料理を装うところだった。
宿で働いている者は、基本的に昼食を共にするというのが、主である早苗の方針だ。これは、亡き夫の提案から始まったもので、息子の大樹にも引き継ぐようお願いしてある。だが、この席に新一がいることは少ない。今日もまた、彼の姿は無かった。

新一は早苗に雇われている形になってはいるものの、その仕事は宿に関するものでなく、彼女の所有するアパートの管理に関する事柄となっている。亡き夫にアパート経営を勧めたは新一だ。新一がまだ十歳になるかならないかの頃の話だ。

もともとは、もう十年以上も前に、夫の友人だった阿笠が、『家出をしてきた子なんだが、どうか匿って欲しい』と連れてきた子供が新一だった。以来、不定期に阿笠に連れられ、時には一人でもやってくるようになり、やがて、自発的に宿の手伝いをするようにもなった。

変わったものが好きだった夫が、興味本位で見に行った展示会で出会い、意気投合したのが阿笠だった。
その阿笠にしろ新一にしろ、貴族階級の人間だということは最初からわかっていたが、二人とも互いに気安く付き合える関係性を求め、未だにその付き合いは続いている。
早苗にとって新一は、いつも的確で、時には思いも付かないようなアイデアを与えてくれる頼もしい存在だった。新一にしてみても、早苗の存在は市井での活動拠点を常に用意してくれる存在で、お互いにとって有益な関係性だと言えるだろう。

国王夫妻が離宮に幽閉されてから、既に半月ほど経過していた。
その間、公式な情報はどこからももたらされてはいない。新一はその情報収集に飛び回っているということは、早苗にもわかっていた。 不確かな情報だけが独り歩きして、今も城内だけでなく、市井においても国王に対しての不信感が少しずつ広がっていた。 蘭の心配は募る一方であろうが、努めて平静を装っている。仕事に打ち込むことで、今にも押し潰されそうになる心を紛らわさているのだろう。

テーブルの上の料理がおおよそ片付いたのを見計らって、早苗は口を開いた。
「蘭ちゃん、今日はもういいよ。この空の様子だと、夜には冷たい雨になりそうだしね」
「え? あ、でも……」
そうそう、と追従したのは大樹だった。
「ここんとこ、働き詰めだったからね。そんなに毎日張りつめていちゃ、体も心も持たないってもんだよ。これは新一君にも言いたいことなんだがね」
言って、早苗は苦笑する。これには蘭も苦笑で返すしかなかった。
「二人にあまり頑張られると、俺たちも気が抜けなくなっちゃうからさ」
と、大樹が朗らかに笑う。この親子の笑顔は良く似ている。心がふっと少しだけ軽くなった気がした。
「それじゃあ、お言葉に甘えまして」

昼食の後片付けを済ませて、蘭は宿を後にした。
そのままアパートに戻っても新一がいるはずはなく、自然と足は大通りへと向かう。街中の店先で香ばしい匂いを漂わせていた焼菓子を手土産として、そのまま教会へと向かった。
途中で小五郎と住むアパートにも立ち寄ってみたが、相変わらず、生活している様子は見られなかった。

教会に辿り着くと、そのまま裏手に回り、勝手口へと向かった。昼過ぎのこの時間であれば、台所付近に誰かいるはずだ。ドアをそっと開け、遠慮がちに声を掛けた。
「こんにちは……」
「誰かと思ったら、蘭ちゃんじゃないか!」
明るい声の持ち主は谷内だった。谷内は一人、ハーブティーを飲んでいた。

「思いがけず、お休みを貰ったので、皆さんとお茶でもしようかと思いまして……」
言って、手にしていた焼菓子を掲げる。
「そいつはちょうど良い! 先生や志保ちゃんたちを呼んでこなきゃな。どうせ、そろそろ山口さんも来るだろうしさ」
谷内は彼らしい、人懐こい笑みを浮かべた。蘭も釣られるように笑みが零れた。

勢いよく立ち上がった谷内の表情がわずかに歪むのを、蘭は見逃さなかった。
「まだ痛みますか?」
「今日みたいに、雨が降り出しそうな時とか。たまになんだけどなぁ……」
谷内は困ったように笑う。
「考えてみれば、俺の命は新一に拾って貰ったようなもんだからなぁ。蘭ちゃん、あんな男はそうは居やしない。絶対に手放すんじゃねーぞ!」
言い終えた谷内の表情は、いつになく真剣だった。

とりあえず、はい、と曖昧に答えたものの、蘭には返す言葉が見つからなかった。蘭自身にも、自分と新一との関係性がよくわからないのだ。
今や、自分にとって大切な存在であることは否定しようがない。
では、新一にとっての自分はどうなのだろう?
確かに、常に蘭のことを大切に扱ってくれるし、気遣ってもくれる。だがそれが、蘭に対してだからなのか、誰に対してもそうなのか判断に迷い、自信を持てずにいた。
蘭がこれまで見てきた限り、彼は誰に対しても真っ直ぐ向き合う人間なのだ。

「おや、珍しい組み合わせでの密談だねぇ」
思考の波に囚われていたために、いつの間にか、山口が勝手口から顔を覗かせていたことに蘭は気付かなかった。故に、きゃっ!と悲鳴にも似た声を上げてしまった。
「開口一番がそれかい! そりゃ、蘭ちゃんだって驚くってもんだ」
谷内はいつもの人懐こい笑顔に戻っていた。

台所が賑やかになったことに気付いたのだろう。新出や志保、そして、前田も台所に集まってくる。見知った顔が並び、蘭は緊張の糸が解けていくのを感じていた。

彼らと団欒の場に新一が加わったのは、夕食もほぼ終わる頃だった。
「皆さんお揃いで、ちょうど良かった! 大樹さんから皆さんに、ということです」
勝手口から何気ないように現れて、さも当然という風に蘭の隣に座る。そして、食卓の中心に手にしていた籠を置いた。中には、まだ温もりが残るパイが入っていた。

新一の髪が僅かに濡れていた。
「雨、降りだしたんだね」
蘭が問うと、新一は一笑し、小さく肯いた。
「それと、蘭に早苗さんからの伝言。今夜は客も少ないから、明日の夕方まで休むように、と」

「お前さんは、いつも唐突に現れるんだな」
山口が半ば呆れたように言う。
新一はこれには苦笑を返しただけで、代わりに言葉を返したのは、吐き捨てるように言った志保だった。
「この人は昔から神出鬼没なのよ」
これには、志保の隣りに座る前田が小さく頷いた。

新一が歓談の輪の中に加わり、始めはお互いの状況などを面白おかしく話していたのだが、話題は次第に街の情勢へと移り、その場の空気も自ずと重くなっていた。

山口が言葉を選ぶようにして言う。
「結局、俺ら市井の者にとっては、国だったり、王室だったり、議会だったりが何をやっているかを知らなくても生きてはいける。むしろ、普段はそういった存在を意識する必要のない状態の方が平和なんだろうなぁ。だが、今は誰もが国の行く末を、国王陛下や王室を心配している。何も気にしなくても平気だったはずなのに、存在を意識することで何もわからな過ぎて、誰もが疑心暗鬼になっているんだ」
「そして、何を信じてい良いかわからないし、何を考えたらいいかもわからないから、不安に押し潰されないようにと、変に笑ってごまかすようになる、と」
言葉を繋いだのは谷内だった。その表情は、言葉通りの複雑な笑みを浮かべていた。

「確かに、あまり良い兆候ではないと、僕の目にも映っています」
新一は淡々と言う。
「国民議会も回が進むにつれ、良い方向に向かっていってるような感覚があったんだけどなぁ、どこで歯車が狂ってしまったんだか。やっぱり俺らみたいなもんが、国の行く末を左右するような話し合いの場にいたことが、そもそも間違いだったとか……」
まるで他人事のように言うと、山口は腕を組み、視線を天井へと彷徨わせた。
「そんなことはありません!と強く言いたいところですが……」
新一は自嘲気味に言う。暫しの沈黙が続いた。

「議会のお蔭で、国民の目にもこの国の有り様が垣間見えるようになった。少なくとも、流れは変わった。この流れを良い方向に向かわせるための突破口がどこかにあるはずなんです」
新一の語気は自ずと強くなる。
「どこかに必ず!」

その夜、各々が与えられた部屋に引き下がった後、蘭は一人、礼拝堂に籠り、祈りを捧げていた。この日、教会を訪れたのは、心を許した人たちの顔を見たかったのもあるが、それ以上に、この礼拝堂に籠りたかったという思いが大きい。蘭は漠然としか神の存在を信じていない。それでも、この礼拝堂で祈りを捧げると、少しは心が落ち着くことをこれまでの経験から知っている。今もまた、何もできない自身を歯がゆく思いながらも、母と母が仕える国王夫妻の無事を神に願わずにはいられなかったのだ。

長らく一人の時間を過ごした礼拝堂を出ると、静寂に包まれているはずの教会内に、男たちの言い様は軽い調子ではあるが、鬼気を滲ませる言葉が飛び交っていた。声の主は新一と、前田だった。
「随分と力が落ちたようですね? 昔みたいに、容赦なく僕にケガを負わせてみて下さいよ!」
「そうしたいところは山々なんですがね……、さすがに五年も第一線から離れていて、その間、鍛錬を怠らなかった人間が相手だと……、かつての実力差は幻と成り下がるってものでしょう」
二人は中庭で手合わせをしていたのだ。
蘭はかつての新一と京極の二人の姿を思い出しながら、あの時と同じように新一と前田の一挙手一投足に見入っていた。

「蘭、ちょうど良いところに来た!」
突然、その動きを止めることなく、新一が蘭に声を掛けた。
「前田さんがいつまで経っても本気になってくれないから、蘭、加勢してくれ!」
「え?」
「えーっと、新一様、どういうことですか?」
「蘭、いいから早く!」

訳がわからないまま、けれども、抗い難い新一の言葉に誘われるかのように、蘭はゆっくりと二人の元へと近付く。不意に新一に腕を捕まれ、引き寄せられる。闘いの場が持つ独特の空気に、考えるよりも先に蘭の身体が反応していた。

どれくらい時間が経過したのだろうか? 新一の止め!という強い言葉が聞こえるまで、蘭は無我夢中で前田に対峙していた。新一の邪魔にならないように、少しでも新一の助けとなれるように、と。

三者三様の荒い息遣いが中庭に響いていた。
それぞれの呼吸が落ち着く頃、ようやく新一が口を開いた。
「少しは、気が晴れたか?」
視線を向けられても、自分に対しての言葉とはすぐには理解できず、蘭は戸惑いの色を受かべて見つめ返すことしか出来ずにいた。
「どれだけ仕事に打ち込んでも、ここでみんなと歓談してても、心の置き所はなかったはずだ」
真っ直ぐ向けられた視線を受け止める蘭の瞳に見る間に涙が溢れ出すのを見て取って、前田は何も言わずにその場から離れた。

新一は右手でそっと涙を拭う。
「誰かと組み合っている時は、他のことは考えられないだろ? 焦燥感に押し潰されることもないから」
新一が穏やかに微笑みかける。
「心配するなとも、自分の非力さを嘆くなとも言わない。けれど、蘭が押し潰されてしまっては元も子もないんだ。わかるよな?」
蘭はコクリと幼子のように頷いた。
「……もしかして、私のために稽古に加えてくれたの?」
「そうだな、蘭の気晴らしになればと思ったのは事実だけど、前田さんに本気を出させたかったというのもあったからな。蘭のために、と言えるのかどうか……」
「ううん、それでもありがとう。新一の言う通り、ずっと緊張で凝り固まっていたものが、少しだけほぐれた感じがする」
言って、目を赤くしたままはにかんだ。
新一の右手がもう一度涙を拭って、そのままポンポンと優しく蘭の頭を叩いた。その頭がそっと新一の右肩に寄せられる。いつでも自分のことを気に掛けてくれる人がすぐ側にいる幸せを、この時、蘭はしみじみと噛みしめていた。

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