in New York

ジョン・F・ケネディ空港到着後、直ぐにタクシーに乗り、セントラルパーク近くにあるホテルに着いた頃には、既に正午を回っていた。
チェックイン後、昼食を済ませ、二人はそのままホテルの部屋で休息を取る事にした。その間、新一はニューヨーク市警のラディッシュ警部に電話し、翌日の午後3時に会う約束と取り付けていた。

そして、夕方。

「なあ、蘭。オメー前に来た時は、ほとんど夜景を見れなかっただろ?」
「うん。劇場に向かう時は途中まで寝てたし、帰りは事件に巻き込まれた上に、倒れちゃったから……。雨も降ってたし、夜景なんて楽しむ余裕は無かったわね」
「だろ! だから、今夜はたっぷりと見せてやっから。確か、オメー、ワンピースを持ってきてただろ? そいつに着替えな。もう少ししたら出掛けるぞ」
「えっ? 何でワンピースに着替えなきゃいけないの?」
「まあ、いいから。とにかく、バスルームにでも行って、さっさと着替えてこいよ。バスルームなら鍵を掛けれっから、気兼ねなく着替えれるだろ? 俺もここで着替えておくから。なっ」
「うん……。じゃあ、そうするね」

着替えを済ませ、二人はホテルの玄関口からタクシーに乗り込んだ。

「World Financial Center, Please.
 (ワールド・ファイナンシャル・センターまでお願いします)」

数分後、タクシーはブロードウェイに差し掛かかる。

「ねえ、新一。あそこって……」
「ああ、ファントムシアター劇場だ。あの時、ゴールデン・アップルをやってた劇場だよ」
「やっぱりそうなんだ。それで、今は何をやってるの?」
「“黒いオルフェ”のようだな。確か、昔カンヌで大賞を取った映画だったはず。まあ、そいつを舞台化したやつってところか。それにしても、また、ギリシア物か……」
「えっ?」
「あっ!」

新一の顔が一瞬にして厳しいものへと変わる。

「Are you taking the wrong road?
 (道、間違えてるんじゃないのか?)」
「What? Oh! Sorry.
 (えっ、あっ、すみません)」
「Well, go three blocks and make a left.
 (まあ、いいだろう。3ブロック行って、左に曲がってくれ)」
「You got it.
 (わかりました)」

「ねえ、道を間違えてるって、どういうことなの?」
「多分、わざと遠回りして俺達から余分にタクシー代を騙し取ろうとしたんだろう。俺達の泊まるホテルはそこそこの格式があるし、いくらガキだとはいえ、そんなホテルから日本人カップルが乗り込んでるんだから、それなりに金を持ってるだろうと考えるのは、自然な流れだろうからな」
「それで、あんな風に……」
「まあ、そういう事だ」

「Here we are. $9.00, please.
 (着きましたよ。9ドルになります)」
「Here’s $10.00. Keep the change.
 (はい10ドル。お釣はどうぞ)」

二人が降り立ったワールド・ファイナンシャル・センターは、ワールド・トレード・センター跡地グラウンド・ゼロとハドソン川の間にある金融関係のビル群にある。日中はビジネスマン中心であるが、夜はハドソン川の眺めを目当てにしたカップルも多い。二人の今宵のディナーの店も、そんなカップル達で賑わう場所の一つだった。

「I have a reservation. My name is Kudo.
 (予約してある工藤ですけど)」
「ねえ、新一。いつの間にここ予約してたの?」
「あん? さっき、ラディッシュ警部に電話したときだけど」
「そうなの。そんな電話してたなんて、全然気付かなかったから。それでさっき、ワンピースに着替えろって言ったのね?」
「そういう事。ここは、格式が云々というよりは、雰囲気がほら……」

ウェイターに案内された席からは、対岸のニュージャージーが手に取るように見えていた。

「なるほどね」
「だろ!」

料理をオーダーし、二人は窓際の席に向かい合わせに座る。

「ハドソン川が目前なのね。本当に素敵な夜景」
「ここからじゃちょっと角度が悪いけど、向こうにはほら、自由の女神だって見えるんだぜ」
「ホントだ。ミス・リバディだよね?」
「そう。オメー、こういうの好きだろ?」
「うん」

いつの間にか運ばれてきた料理を口にしながら、二人は目の前の夜景について暫し会話を弾ませていた。

「そういえば、新一。さっき、タクシーの中で、“黒いオルフェ”のことを、またギリシア物かって言ってたけど、あれって?」
「その事か……、はっきり言って面白くない話っていうか、完全な悲劇だぞ、“黒いオルフェ”は。それでも聞きたいか?」
「あっ、うん」
「そうか、じゃあ話すが、オルフェっていうのはギリシア神話ではオルフェウスって言うんだけど、竪琴の名手で巧みな歌い手でもあったんだ。ほら、星座に琴座っていうのがあるだろ?」
「あの、七夕の時の彦星がある?」
「そう。その琴の持ち主がオルフェウスって訳さ」
「そうだったの。それで?」
「で、そのオルフェウスにはエウリュディケっていう最愛の人がいたんだが、その彼女との結婚式で、花嫁が毒蛇に噛まれて死んでしまうんだ」
「そんな、ひどい……」
「その後、悲嘆にくれたオルフェウスは、彼女のことを諦め切れなくて冥界まで行き、冥王ハデスに懇願したんだ、エウリュディケを生き返らせて欲しいって。普通なら、そんな願いが聞き入れられることは有り得ないんだが、オルフェウスは竪琴と歌の名手だったから、その音色で冥界の番人やハデス達の心を動かして……、それで、地上まで一度も振り返らずに行けたら、生き返らせてやろうと言って、ハデスはエウリュディケの手を取らせたんだけど……」
「だけど?」
「もう少しで地上だっていう所で、オルフェウスは自分が手にしている妻の手の感触が力無い事に不安になってしまい、呼び掛けてみたんだが妻の返事も無くて……、思わず振り返ってしまったんだ。そこには、確かにエウリュディケはいたんだが、あっという間に闇の中に引きずり込まれてしまって」
「それじゃあ、エウリュディケは?」
「そう、生き返る事は無かった。その後、オルフェウスも深い悲しみの中で死んで……。結局、二人は冥界で再会する事になったんだ。で、“黒いオルフェ”っていうのは、そんな二人の悲劇をリオのカーニバルを舞台に、現代風にアレンジした映画で、その映画を舞台化したのを今、ファントムシアターでやってるんだろうな。ちなみに、日本にもイザナギとイザナミとで似たような話があるんだけどな」
「そうなの? それにしても、あの琴座にそんな悲しいお話があったなんて……」
「だから、言っただろ?」

そこまで言って新一は、何か考え込むように黙ってしまった。いつにも増して真剣な表情をしている新一に、蘭は次第に不安になっていった。

「ねえ、新一。何か考え込んでるようだけど、どうかしたの?」
「ああ。やっぱり、人の生き死にや老いを操作しようなんて、タブー以外の何ものでもないんだろうなって思ってさ」
「はあ? いきなり、何を言い出すのよ、新一」
「そういえば、大女優シャロン・ヴィンヤードが脚光を浴びたのが、ゴールデンアップルだったんだよな」
「だから、急にどうしちゃったのよ、新一ってば」

短い沈黙の後、意を決したように新一は話し出した。

「蘭。オメーに今から大事な話をすっから、覚悟して聞いて欲しいんだ」
「覚悟してって。もしかして、新一がコナン君だったっていう話と同じくらいのものなの?」
「まあ、そう思ってもらっても構わない」

フゥと一つ溜息をつき、新一は蘭の顔を見ながらゆっくりと話し始めた。そう、蘭に対してだけでなく、自分自身に対しても語り掛けるように……

「ちょっと前に、日本を旅行中だったアメリカの女優クリス・ヴィンヤードが、事故で死んだっていうニュースがあっただろ?」
「ええ」
「あれは事故じゃなかったんだよ」
「事故じゃなかったって……。 じゃあ?」
「ああ。実は女優クリス・ヴィンヤードは、俺が追っていた組織の人間で、ベルモットと呼ばれる幹部だったんだ。そして、あの時、彼女も他の幹部達と一緒に死んだ。ただ、他の幹部達と違って、彼女は結果的に俺を助けるために死んでいったんだけど……」
「えっ?」
「あの時、俺はジンと呼ばれる男に銃口を向けられて、もう少しで射殺されるとこだった。けど、その時にベルモットが現れて、ジンに銃口を向けながら叫んだんだ。『お願いだから、その子を撃たないで』って。そのために彼女はその場でジンに撃たれ、そして、息を引き取った……」
「そうだったの。でも、何で新一を撃たないでって、その時、クリスが言ったの?」
「その事だが……。彼女には別の顔があったんだ。クリスは変装術を身に付けていて、ほら、俺の母さんと彼女の母のシャロンが昔、日本の有名な奇術家に教わったっていうやつだ」
「その話しなら、2年前におばさまから聞いたわね」
「ああ。それで、クリスの別の顔っていうのが、2年前に俺達が廃ビルで会ったあの日本人通り魔だったんだよ」
「まさか、そんな……」
「彼女は自分を追っていたFBIの人間を誘き出すために、あの通り魔に化けていたらしいんだ」
「でも、新一。あの通り魔は自殺に見せかけて殺されたって、電話で話したわよね?」
「多分、その通り魔の死体は組織によって用意された替え玉だったんだろう」
「それにしても……、あの時の通り魔が、クリス・ヴィンヤードだったなんて……」
「実はな、この話しにはまだ続きがあって……。彼女には、もう一つ別の顔があったんだ。それで、その顔っていうのが……」

言い難そうにしている新一の様子に、蘭はこれから話される内容の重大さを感じ取る。

「彼女の母で、大女優のシャロン・ヴィンヤード」
「えっ? 今、何て言ったの、新一」
「2年前、俺達と会った直ぐ後に死んだとされるハリウッドスターのシャロン・ヴィンヤードだ。まあ、正確に言えば、シャロンが娘のクリスに変装して一人二役をこなしていた訳なんだが……」
「そ、そんな……、あの、シャロンが、信じられない……」
「だろうな。普通の人間なら到底信じられるような話じゃないだろう。だから、捜査関係者も今もって極秘にしている事柄なんだ。まあ、そんな事が世間に知れたら、混乱を招くだけだからな。ただ、蘭なら、江戸川コナンの正体を知ったオメーなら、何とか信じられるんじゃないかと思うんだが……」
「う、うん……」
「ベルモットが俺をかばったのは、彼女がシャロンだったからだろうな。本当はこの事はもっと前に……、そう、コナンの正体を話した時に言おうかと思ってたんだが、オメーが前にほら、シャロンの事、憧れてるって言ってたし……、それに、俺自身もあの時はまだ、それほど気持ちの整理に余裕も無かったから」
「そっか……」
「それと、シャロンが息を引き取る間際に俺に言ったんだけど…『エンジェルを大切にね』ってね。それが彼女の最後の言葉なんだけど……」
「エンジェル……か」

二人の間に暫しの沈黙が流れた。

「ねえ、新一。前に哀ちゃんと二人、誘拐されそうになった事があったじゃない?」
「ああ」
「あの時の犯人って、シャロンだったんでしょ?」
「オメー……、どうしてその事を?」
「どうしてって言われても……、あの時、犯人に銃口を向けられた時に、私、彼女に言われたのよ、『Move it, Angel !! 』って」
「『どいて、エンジェル』……か」
「私、その声に聞き覚えがあったし……。それと、エンジェルって呼ばれた事もずっと気になってたんだけど、今の新一の話でやっと理由がわかった気がする」
「理由?」
「ええ。あの時、私、ジョディ先生の部屋で新一達の写真を見つけたから、何かあると思ってジョディ先生の車のトランクに忍び込んだんだけど、何で私の写真にAngelって書かれていたのか、ずっと見当が付かなかったの。でも、シャロンがそのベルモットという人物だったのなら、Angelの意味が想像つくわ」
「Angelの意味か……」
「そう。2年前の通り魔に会った翌日に、おばさまとシャロンが電話で話した時、シャロンが私にって伝言したでしょ? 『私にもAngelがいたみたい』って。あれって、前日に私がシャロンをあのビルで助けたから、だから、私の事をAngelって呼んだんだと思うの……」
「だろうな、それなら全ての辻褄が合うからな。それより、ゴメンな、蘭。折角の夜景も、こんな話をされちゃ台無しだったな」
「あっ、ううん。かえって話してもらって良かったと思ってるよ。私もずっと気になってた事がすっきりしたみたいだしね。それに、夜景も充分楽しんだから」
「そっか。そう言ってもらえれば、俺も少しは気が楽になったよ。明日、ラディッシュ警部に会いに行くのはこの件でだったから、今日中に話しておいた方が良いと思ってたんだ」

すっかり食事を終えていた二人は、暫くそのまま窓の向こうに見える夜景を静かに眺めていた。

翌日、ラディッシュ警部との約束まで時間があったので、二人はエドガー・アラン・ポーの家とその近くにあるブロンクス動物園を訪れていた。新一がポーの家に興味があったからという理由もあったのだが、何よりも蘭を動物園に連れて行く事で昨夜の重苦しい空気から開放し、少しでも気晴らしになればという配慮によるものだった。

「動物園なんて、いつ以来だろうな?」
「小学校の遠足の時以来じゃないかな、確か。でも、こうやって純真無垢な動物達の目を見てると、自分も何か童心に帰れるような感じがするの、不思議よね」
「何か、その台詞って蘭らしいよな」
「そうかな」
「ああ。まあ、でも、たまには動物園に来るのもいいもんだな。オメーのそのガキっぽい顔も見れたし」
「どういう意味よ、新一」
「気にするなって」
「もう……。でもね、新一。今日はありがとう、動物園に連れてきてくれて。私が昨日の話で気落ちしてるんじゃなかって思ったんでしょ? だって、そうじゃなきゃニューヨークにまできて、動物園に行こうなんて言わないんじゃないの?」
「えっ?」
「バカにしないでよ! 私だって新一が私の事、気に掛けてくれてるんだなって事くらいはわかるんだからね。昨日も新一、物凄く話し辛そうだったけど……、私、もう大抵の事じゃ動じないから。幸か不幸か免疫が出来ちゃったみたいなのよね。ほら、これから、昨日の話をしにラディッシュ警部の所に行くんでしょ?」
「ったく、蘭には敵わねーな。ていうか、オメー、ホントは無理してねーか? そんな必要はねーんだぞ」
「わかってるって。昨日の事だって、確かに最初はびっくりしたけど。でも、結構冷静に受け止める事が出来たの。それに、私が変に無理したって、新一はすぐに気付いちゃうから。そうでしょ?」
「ホント、オメーには敵わないよ。それじゃ、さっさと行くか」
「うん」

午後3時。
ニューヨーク市警本部。

「I’m Shinichi Kudo and she is Ran Mori. May I ask for a captain Radish?
(僕は工藤新一で彼女は毛利蘭って言います。ラディッシュ警部にお会いしたいんですが)」
「Do you have an appointment?
 (約束はされてますか)」
「Yes, I do. (はい)」
「OK. (わかりました)」

数分後、見覚えのある顔が二人の前に現れた。

「I haven’t seen you for a long time.
 (お久しぶりです)」
「日本語で構わないよ、新一君。それに、蘭さんだったね」
「はい、お久しぶりです、ラディッシュ警部」
「2年振りかね。それにしても二人ともすっかり大人っぽくなって……。新一君、優作君達とは一緒じゃなかったのかね?」
「ええ。二人とも今、ロスにいます。くれぐれも宜しくと言ってました」
「そうか。それは、ちょっと残念だな。ところで、新一君。例の通り魔の事で訪ねてきてくれたのだね?」
「はい。おおよその事は聞いているかと思いますが、僕の口からも説明を補足しておいた方が良いと思いまして。それで、お忙しいところ申し訳ないんですが、あの現場まで連れて行ってもらいたいのですが?」
「蘭さんもかね?」
「ええ。彼女には事情は既に話してあります。それに、蘭も目撃者ですから」

年頃の女の子が行く場所ではないだろうとラディッシュは思ったのだが、自分の目を見て頷いて見せる蘭の様子に、余計な心配なのだと感じた。

「OK。裏に車を回すから、二人とも一緒に来なさい」
「ありがとうございます」

二人揃って頭を下げる様子を見て、ラディッシュは申し訳ない気持ちになっていく。

(この、まだ時折、子供っぽさを覗かせる少年が、そう、物事を真っすぐに見つめる目を持つこの少年が、あんな大きな犯罪組織に対峙していたなんて。大人である我々が、プロであるはずの我々が、ただ手をこまねいていただけとは、実に情けない話だ)

移動の車中、新一はラディッシュから通り魔事件についてどの程度、事情説明を受けたか確認した。
ラディッシュの説明によると、犯人が新一の追っていた組織にいた人間で、幹部クラスの地位にいた人物であった事、その人物の正体や残された死体が替え玉だった事などの事実関係のみ知らされている様子だった。

ラディッシュの説明が終わるの時を同じくして、車は2年前の事件現場である廃ビルに到着する。
そこは、時が止まっているかのように2年前と何一つ変っていなかった。車から降り、3人は廃ビルの入口に立つ。そこで新一は、先程のラディッシュの説明に補足するように話し始めた。
組織についての大よその説明に始まり、なぜ、女優であるクリス=シャロンが、通り魔に変装する必要があったのか。そして、冷酷な組織の人間であるはずなのに、あの時、なぜ、新一と蘭を殺さずにいたのかという事を……、その点については、女優シャロン・ヴィンヤードと新一の母である有希子とが、20年来の友人であったため、友人の息子である新一とガールフレンドの蘭に手を出す事に躊躇したのであろうという説明に留めた。

そして。

「ラディッシュ警部。蘭と二人で上の方まで行きたいんですが?」
「構わないが、老朽化が進んでいるからくれぐれも気を付けなさい。私は車で待っているから」
「ありがとうございます。それ程、時間は取りませんので」

そう言って、新一は不安そうな表情を見せていた蘭の手を取る。

「一緒に上まで行けそうか?」
「新一がこの手を離さないでくれるなら、大丈夫」

7〜8F付近に相当するであろう。手すりがなくなっている踊り場で二人は歩みを止めた。

「ここだな……」

一点を見つめ、物思いに耽る新一に、蘭は掛ける言葉を見出せずにいたのだが、ふと、急に自分の手を握る力が先ほどよりも強くなっている事に気付く。

「新一?」
「考えてみれば、組織との闘いの始まりは、トロピカルランドで子供の体にされた時でなく、ここであの通り魔に、いや、ベルモットに出会った時だったんだなと思ってさ。お互いにそんな認識はなかったんだろうけど」
「始まり? ここが?」
「ああ、そうだ。なあ、蘭。夕べ“黒いオルフェ”の話をしただろ?」
「ええ」
「あの話をしながら思った事があるんだ。2年前、ここで俺は開けてしまったんじゃないかって、“黒の組織”というパンドラの箱を。そう、ギリシア神話の中のパンドラのように、押さえきれない好奇心から開けてしまったって」
「パンドラの箱って、あの、ありとあらゆる悪が世界中に広がって、唯一残されていたのが希望だったっていう?」
「そう。さしずめ、俺の場合は、ありとあらゆる悪っていうのが、組織の奴らの冷酷なまでの犯罪の数々で、唯一残された希望っていうのが……、蘭、オメーだな」
「私が希望?」
「あの時、コナンになった時、俺の心の支えになっていたのは、蘭の存在があったから。確かに、諸悪の根源のような組織をぶっ潰さなきゃならないっていう思いもあったが、何よりも早く元の体に戻って、俺の気持ちを伝えて、蘭を安心させてやりたいっていう気持ちの方が強かった。だから、俺をずっと待ち続けてくれた蘭は、俺の希望そのものだったんだ」
「私が新一の支えになっていたの? 私でも新一の役に立ってたの?」
「当たりめーだ。オメーがいなかったら、組織の巨大さを前に途中でくじけてたかも知れねーし……、ありがとうな、蘭。辛い思いばっかりさせちまったけど、これからはもう、あんな辛い思いはさせねーから。約束するよ」
「うん、信じてるよ。新一がオルフェウスのように不安になって後ろを振り向かなくても良いようにね」

緊張の糸が切れたように、二人は互いを見合い、声を上げて笑い出す。それまであった重苦しいムードは既に消えていた。 そのまま、二人はその場の階段に腰を掛ける。

「ねえ、新一。多分、この話はしてなかったと思うんだけど……」

急に顔を赤くした蘭は、そう言って話し始める。

「あの時なんだ、私が新一へのホントの思いに気が付いたのは。そう、『わけなんかいるのかよ。人が人を殺す動機なんて、知ったこっちゃねーが……、人が人を助ける理由に……、論理的な思考は存在しねーだろ?』って、ここで新一が言った時から。あの日、私ごまかしはしたけど、本当はローズに言われた言葉でショックを受けてたから。だから、あの時の新一の言葉で、私、救われたのよ。くやしーけど、ホント、嬉しかったんだ」
「あの時って、2年前のか? そんな最近だったのか、俺の事を意識し始めたのって」
「本当に新一の事を好きなんだって気付いたのはね。でも、それまでだってとっても大切な存在だったんだよ。ただ、好きだって認識出来てなかったの。あの時までは、新一は私の側にいるのが当たり前なんだって思ってたんだけど、あの言葉で、側にいて欲しい、側にいてくれなきゃ困るって思うようになって……。好きっていう感情はこういう事をいうのだろうなって思ったの」
「そういう事ね。でも、何か拍子抜けだな」
「自分は子供の頃からだったから?」
「えっ?」
「中学の時に麻美先輩に言った、気になる人って私の事だったんでしょ?」
「おめー……、気付いてたのか? だったら、何でだよ。園子や麻美先輩に冷やかされても、とぼけてただろ、あの時」
「それは、だって……、あの時はコナン君の事を新一だと思ってたから。本人の前で認めるのは何かくやしいじゃない」
「ハハハ。あの時は、オメーはニブイから、ホント気付いてないんだと思ってホッとしてたのに。蘭にしてやられたようだな」
「まあね」
「オメーって、結構、侮れないよな。っと、そろそろ下りるか。だいぶ、ラディッシュ警部を待たしちまったもんな」
「そうね」

再び立ち上がり、二人は階段を下り始めた。二人の手は固く繋がれたままで。

「あのさ、蘭」
「何?」
「実はな……」

足場が悪くなっている階段を慎重に下りながら、新一が言葉にする。

「オメーをニューヨークに誘ったのは、シャロンの事を打ち明ける目的もあったんだが、それよりも、今回の組織の件で、俺自身、気持ちの決着を付けたかったからなんだ。蘭とここに来れば全てを終わらせるような気がしてたから……」
「そうだったの。それで、新一。その決着は付いたの?」
「ああ。俺が開けちまったパンドラの箱を、やっと閉める事が出来たよ。これでまた、新しい気持ちで前に進める。やっぱ、ワガママ言ってオメーを連れてきて正解だったな」
「そう。なら、良かったじゃない。新しい工藤新一の出発だね」
「だな。蘭、俺はまた、別のパンドラの箱を開けちまうかも知らねーが、オメーが俺にとっての希望であり続ける事には変わりないから。それだけは信じて欲しい」
「今度は、私にも全て話してよ。もう、何も知らないで待ってるなんて、私だけ蚊帳の外なんて御免だからね」 「わかったよ、蘭」

そんな会話が終わる頃、二人はラディッシュの車の所まで来ていた。

「お待たせしてすみませんでした。ラディッシュ警部」
「その様子だと、用事は済んだようだね?」
「はい!」

力強く返事をする様子に、ラディッシュは先ほどとは違う新一が見えていた。

(上で何があったか知らないが、一層たくましく、大きくなったようだな)

その後、二人はラディッシュの『うちのカミさんが、ぜひ、二人を招待したいと言ってるんだ』という言葉に甘えて、夕食に招かれる事にした。
ラディッシュ警部の家はブルックリン地区にあった。日本人であるラディッシュの妻は、久しぶりの日本人に、まして、若いカップルの来客という事がよほど嬉しかったらしく、二人を熱烈に歓迎して見せた。あまりの熱烈な歓迎ぶりに二人は当初、戸惑ったものの、その夜は楽しい時間を過ごした。
その後、ラディッシュの車でホテルまで送って貰う事になり、車はブルックリンブリッジに差し掛かっていた。

「ほら、オメーが2年前に見たがっていたブルックリンブリッジからの夜景だ」
「やっと見れたのね、この素敵な夜景を。色々な事があったけど、私、ニューヨークの街を好きになったかな。何ていうか、この街の明かりが頑張れよって言ってくれてるみたいで……」
「ハハハ。蘭さん、そう思うのなら、今度は、観光目的で来るといい」
「ええ。そうしますね」

満面の笑みを浮かべる蘭に、新一もラディッシュも同じく笑みがこぼれていた。

「今日は本当にありがとうございました」
「奥様にも、素敵な夕食に招待して下さって、嬉しかったですとお伝え下さい」
「新一君、優作君と有希子にこちらに来る事があったら、ぜひ寄ってくれるように伝えてくれ。それと蘭さん。ニューヨークはいつでも君達を歓迎するからね」
「ありがとうございます」

そんな会話を交わして、車はホテルを後にした。

翌日、二人はニューヨークを飛び立った。
離陸する飛行機の中で二人は、来た時とは違う印象のその街の姿を見つめていた。

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