10. 天使の微笑み

いつものように、志保は診療室の窓を開けた。
降り注がれる朝日によって一つだった影は消え去り、新しく別々の影が作られていった。

「おはようございます」
時を同じくして、蘭の声が教会に響き渡り、一日の始まりを告げた。

ここ数日の蘭は、朝早く教会に来て怪我人や修道院を訪れる信者たちの世話をし、夕暮れ近くに自宅に戻るという日々が続いていた。修道院と自宅の間は徒歩でおよそ三十分。道中の安全を考えて新一や志保らは護衛の者を付けようとするのだが、
「日があるうちなら、まだ街の治安は保たれているから……。それに、男の人と毎日一緒に教会を行き来しているのを見られる方が、不審に思われるでしょう?」
と、蘭は一向に首を縦に振ることはなかった。

「ねぇ、蘭さん。もうそろそろ、ここで生活することも考えてみたら?」
「うん、志保さんたちが私のことを心配してくれてるのはわかってるんだけど……、でも、やっぱりお父さんのことが心配だから……」
「そうだったわね……」

志保の思いは蘭にも充分にわかっている。けれど、今のうちしか自分の思うように時間を過ごせないのもわかっていた。それゆえ、志保や新一たちの言葉に、心苦しく思いながらも断り続けていた。

「そうそう。今日は新一様が珍しく出かけずにいるわよ。たぶん、中庭にいるはずだから、行ってみたら?」
「あ、はい……」

僅かに頬を染めうつむき加減にその場を立ち去る蘭の後姿を、志保は静かに見つめていた。

礼拝堂を有する教会と、それに付属するいくつかの建物に囲まれる形で中庭は存在している。修道院の敷地の外からでは、決してその中庭の様子を窺い知ることはできない。

逸る気持ちを抑えながらも、歩調は自然と早くなっていく。中庭に面した廊下に差し掛かり、蘭は思わず足を止めた。

「さっきから手加減無用だって言ってんだろ? これじゃあ、稽古にならないだろうが!」
「し、しかし……」

新一にしては珍しく語気が荒い。
全身に降り注ぐ陽光を存分に浴びながら、新一と京極は拳を合わせていた。
流れるような新一の動きに引き寄せられるように、蘭は中庭へ二歩、三歩と踏み入れる。が、二人の間にある張り詰めた空気が、それ以上、近付くことを許さなかった。
「お前は俺を殺す気か? お前が手を抜けば、それだけこの拳の、この蹴りの真実味が失われるんだぞ!」
「あ、はい……」

左右の腕から繰り出される連撃が京極を襲う。一瞬の間をおいて、新一の渾身の右の蹴りが空気を裂き、その風圧で京極の左頬に一筋の赤い線が浮かんだ。

格闘の心得があるだけに、蘭の目にも二人の実力がどれほどのものかは一目瞭然だった。
抜群のスピードと反射神経の良さを武器に、流れるような動きで次々と新一から繰り出される技は、蘭の目でもその動きを追うのがやっとのことだった。そして、その新一を相手に防戦一方ながらも、時より見せる京極の技は新一以上のスピードと破壊力を持ち合わせていた。
自分の知る次元とはまるで違うところにいる二人に、蘭は知らず知らずのうちに魅入られていた。

どれほどの時間が経過したのだろう。しばらくして「もういい!」との新一の声が、その場の緊張が解き放った。
だが、蘭はそのまま動けずにいた。

激しく乱した呼吸を整えようと、新一は大きく深呼吸をする。
大きく動いていた肩が落ち着きを見せ始める頃、新一はようやく蘭の存在に気が付いた。

「悪い、蘭、全然気が付かなくって……。いつからそこに?」
「あ、その、ごめんなさい。つい見惚れてしまって……。たぶん、十分か十五分くらい前からだと思う……」
「そっか……、だとしたら、マズイな、少し……」
「え?」
「相手に集中しつつ、周りの様子にも常に注意を払うことが出来ないようでは、戦いの場で命を落とす日も近いかもしれないから……」
そう言って苦笑いを浮かべる新一の呼吸は既に落ち着きを取り戻していた。

「なあ、京極。お前、まだ余力はあるか?」
「ええ。十分ほどの稽古くらいでしたら何とか……」
「それで充分だ。なあ、蘭。試しに京極と手合わせしてみる気はないか?」

唐突の提案に、そんなの無理だって!と蘭は頑なに断るものの、新一はあえて蘭の言葉を無視するかのように言葉を続けた。

「修道院と家との間の護衛を拒否してるのは、蘭、お前自身だろ? しかも、自分の身は自分で守れるからとか何とか言って。だったら、その力をここで改めて俺に証明してくれないか?」
「でも……、私と京極さんとでは、あまりに力の差があり過ぎるし……」
「なーに、もしこの京極が蘭に傷を負わそうものなら、俺がすぐにこの男を叩きのめしてやっからさ!」
「それは困ります。新一様一人の相手でもギリギリなのに、さらに同時にもう一人の相手など、さすがに無理というものです」
「ってわけだ、蘭。軽く手合わせするだけでいいからさ。そんなことにならないようには俺も注意してるけど、万が一ってこともあるんだし、いざという時のための訓練だと思って、な?」
「う、うん……」
ここまで言われてしまうと、蘭には断る理由を見出すことはできなかった。

新一の右手がスーッと上がり、「始め!」の声と同時に蘭と京極の手合わせは始まった。

蘭と京極の体格の差は二周りは違う。当然、その実力も相当の差があるように思われた。しかし、実際には、京極の方がはるかに苦戦しているようにさえ、新一の目には映っていた。

かつて、ゴロツキどもに襲われた時にその実力を垣間見たが、新一がこうして落ち着いて蘭の戦う姿を目にするのは、この日が始めてのことだった。思っていた以上の蘭の実力に、表情にこそ表さないものの、新一は驚きを隠せずにいた。

自身と比べてみても、当然スピードやパワーは劣っているのだが、蘭のそのしなやかな動きには一切の無駄が無い。たなびく髪と同じような軽やかな動きの拳や蹴りは、一瞬、演舞と見間違うほどの美しささえある。けれど、繰り出される技の数々は、蘭のその華奢な体からは想像も出来ないほどの衝撃を生み出していた。

「止め!」
わずか五分程度のの手合わせだったが、二人の呼吸が荒くなり、肩で大きく息をするほどにまでなっていた。

「合格だよ、蘭」
「え?」
「けど、慢心するなよ? どんなに強くたって、女であることには変わりは無いんだし、その身を大事にしろよ?」
「あ、うん……」
「悪いな、急に無茶なことを言って。汗を掻いただろうから、風呂でも浴びてくるといい。志保に言えば、着替えを貸してくれるはずだ。もし、嫌そうな顔をしようものなら、俺からの命令だって言えばいいし」

「誰が嫌そうな顔ですって?」
「し、志保、いつから、そこに?」
「つい、今しがたからよ。蘭さんに着替えを貸すのは一向に構わないけど、そういう言い方をされるなら、あなたの命令に従うのは、この先考えようかしら。それはそうと、一体どういうつもりなの? 女の子に本気で戦わせるなんて」
「いや、その……」

新一の答えを最後まで聞くこともなく、半ば呆れ顔の志保は蘭を連れ、その場を後にした。

二人の足音が聞こえなくなるのを待って、新一は京極に尋ねた。

「どうだった、蘭の相手は?」
「はい。正直に申し上げると、かなりやり難い相手です。スピード自体はそれほどでもないんですが、全身のバネを使って技が繰り出されているせいか、手元に来てから大きく伸びてくる感じです。なので、防御するにもタイミングを計るのが難しくて……」
「近衛部隊でも即戦力として使えるほどの実力があると思うか?」
「ええ。女性であれだけの力があるのならば、下手な男の兵士よりも使えるかと存じます」
「そうか……。元警吏の父親から教わったって話なんだけど、その点についてはどう思う?」
「一介の警吏では、あれほどの技を身に付けることは無理でしょう。軍の、それも相当な実力を持った部隊の人間からの指導であれば理解できますが……」
「だよな……」
どこか思いつめた様子でそう返すと、新一は眩しそうに空を仰ぎ、そのまま言葉を続けた。

「蘭の実力を目の当たりにしながら、ふと思ったんだ。蘭の父親はなぜ蘭にあれほどの技を叩き込んだのだろうと。しかも、蘭の話では、蘭の母親にも同じように教えたというのだから尚更だろ?」
「ええ、確かに……」
京極が遠慮がちに頷く。

「お前と手合わせをさせておいて何だが、俺は蘭を戦いの場に引き込むつもりはない。誰かを傷付ければ傷付けるほど、蘭の心に軋みが生まれ、その軋みが後に蘭を苦しめることになるだろうから……」
「それは、新一様とて同じでは?」

新一はゆっくりと首を横に振った。
「いや。俺が戦いの場に身を置くことは運命だと割り切ってきたし、これからもその運命に抗うつもりはない。でも蘭は違う。蘭の運命ではないはず」

「蘭さんのことを大切に思っていらっしゃるんですね?」
一瞬の沈黙の後、新一は静かに目を閉じた。

「なあ、京極、お前は天使がいると思うか?」
「天使ですか?」
「ああ。俺、ガキの頃に一度だけ、もしかしてこの子が天使じゃないのかって思ったことがあってさ」
「まさか、それが蘭さんだったと?」
「たぶん、蘭は覚えていないだろうけどな。笑っちゃうだろ? 俺らしくも無いって……」
言って、新一は苦笑いを浮かべる。

「おそらく、この一ヶ月以内に、俺たちが大渡間監獄を襲った以上のことが起きるだろう。そうなれば、当然のように、街中に狂気が満ち、笑顔は失われていく。そんな中でも、蘭の、天使の笑顔だけは守りたいと思うのは、俺のわがままなんだろうか……」

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