9. 花月〜フロレアル

いつの間にか変わりゆく日々の中で、礼拝堂の奥深くまで届いていたはずのステンドグラス越しに差し込む朝の光は、その角度を緩やかなものへと変えていた。

新一たちによる大渡間襲撃から早一週間。
あの日、夜明けと共に野戦病院のような様相を見せていたこの礼拝堂も、今は元の静寂な祈りの場へと戻っていた。

「神よ、どうか私の過ちをお許し下さいませ。不幸なことに、今、この国は必ずしもあなたの教えに忠実ではありません。私には、どうしてもあの人たちが受けた謂れ無き試練を見過ごすことが出来なかったのです。そして、これからも……」
あの襲撃の夜以来、医者であると同時に、教会長として神に仕える身でもある新出の懺悔は続いていた。

小さく息を吐き、いつものように朝の祈りに集中しようとした時、ギィーという鈍い音と共に背後の扉が開く。振り向いた視線の先には、蘭の姿があった。

「すみません。お祈りの邪魔をしてしまったようで……」
「いえ、構いませんよ。むしろ、蘭さんの元気そうな姿を見て安心しました」
「本当は、街に戻ってきてすぐにこちらに来て、緑さんや大地君のことですとかお話したかったのですが、新一に念のため、数日は外出を控えるようにと言われていたものですから……」
「新一君から、その辺りのことは聞いていますよ」
「では、新一はあらからこちらに?」
「ええ。あの襲撃の日から二日後の夜に」
「そうだったんですか……。あのー、すみません。私も少し、こちらでお祈りをさせて頂いてもよろしいですか?」
「ええ、もちろんです」

軽く頭を下げると、蘭は一週間前のあの夜と同じように静かに祈り始めた。
蘭が祈る間、不思議と時の流れが止まったかのように空気の流れが失われ、完全な静寂に包まれた。長く艶やかな髪に隠れてその表情は見えないが、穏やかな朝の光に包まれ、一心に祈る蘭の姿に、新出は思わず魅入られていた。

「本当にすみません。朝早くから突然伺ったりして……」
蘭が立ち上がると同時に、失われていた音が戻り、新出の意識もまた、現実へと引き戻された。

「どうか、そう謝らないで下さい。蘭さんに謝られるようなことは何も無いのですから。それはそうと、蘭さん、あなたに是非、紹介したい人がいるんです」
「私に、ですか?」

礼拝堂を出て二人は教会の奥にある小さな図書館へと向かう。新出に案内されたその先には、蘭の見知った顔があった。

「し、志保さん?」
「お二人はお知り合いだったんですか?」
「ええ、まあ」
「それは良かった。では、すみません。私は患者さんの様子を見てきますので」

「お久しぶりね、蘭さん。そろそろ来るんじゃないかと思っていたのよ?」
「え? それに、どうして、志保さんがここに?」
志保は初めて会ったときと同じように穏やかに蘭に微笑みかけると、言葉を続けた。

「新一様に言われたの。しばらくここで、新出先生の手助けをするようにって。一応、これでも私は医者ですから。ホント、いつだってあの人のすることは突然で、周りの人間は振り回されっぱなし。でも、今回に限ってはありがたいと思ってるわ。屋敷にいたって、知っての通り、私の主はすぐに行方不明になるし、博士もここのところ職務で忙しいのかほとんど帰らなくて、一人退屈していたの。その点、ここの図書館には私の知らない書物も結構あるし、本職である医者の仕事にも事欠かないから」
「ここにはいつから?」
「あなたたちが街に戻った翌朝からよ」
「そうだったんですか……」
始めは困惑していた蘭も、志保の言葉でようやく事態を把握していった。

「そうだわ。ちょっと、待ってて」
そう言うと、志保は突然、診療所を後にする。
間もなくして、新一よりも背の高い、一人の男を連れて戻った。

「彼とはまだ、会ったことは無かったわよね?」
「え、ええ……」
「彼の名前は京極真。一応、新一様の護衛役なんだけど、守りべき相手がすぐいなくなるから、最近はすっかり私や博士の護衛役ね」
「あの……。はじめまして、毛利蘭です」
「京極です」
見るからに実直そうなその男は蘭に深々と頭を下げ、そのまま志保に目配せをすると、すぐにその場を立ち去ってしまった。

「彼ね、少し無愛想なところがあるけれど、元近衛部隊の人間だから腕は確かよ。もちろん、新一様でも敵わないくらいに。そう言えば、あなたにもその実力は想像できるわよね?」
「え、ええ……」
蘭も多少なりと格闘の心得があるだけに、僅かな立ち居振る舞いだけでも、その実力を窺い知ることは出来る。志保の言うように、蘭の目にも京極が相当な腕の持ち主のように映っていた。

「近衛部隊と言うと、京極さんはこの国の生まれではないのですか?」
「ええ、そう。彼は西の国の生まれよ」

この国で近衛部隊と言えば、普通、外人近衛部隊のことで、その名の通り、各国からの選りすぐりの軍人が集められ、国王や国王のごく身近な要人を護衛する目的で作られた部隊を指し示す。その力は、この国の数ある部隊の中でも群を抜いていて、国王直属の軍と共に、この国における防衛の中心を担っていた。

京極はその精鋭部隊にいた人間だと言う。志保もそうだが、おそらく、自分と歳はそう変わらないはずなのに、まるで違う世界の人間のように感じられ、蘭の胸には焦りに近い気持ちが生まれていた。

「ごめんなさいね、蘭さん」
「え?」
「新一様に、会いに来たのよね?」
「いえ、そんなつもりでは……、私はただ、その後のことが気になって……」
「無理をしなくてもいいのよ?」
「いえ、本当に私は……。何となく、今日ここにきても、新一さんには会えないような気がしていたから……」
「そう。でも、きっと、近いうちに新一様からここに何らかの連絡があるはずだから、あなたが望むなら、その時にあなたの元を訪ねるように伝えるわよ?」
「では……。これを渡してもらえますか?」

そう言って蘭が差し出したのは、宛名も差出人の名前も無い小さな封筒だった。

「本当にこれだけでいいの?」
手紙というよりはメッセージカードのようなものだったので、志保は思わずそう尋ねたのが、蘭はただ首を縦に大きく頷くだけだった。

「わかったわ。必ず渡すわね」
「よろしくお願いします」
深々と頭を下げる蘭の姿に、志保は心の片隅にわずかな軋みを感じていた。

「話し声が聞こえてきたから、もしやとは思ったんだけど、やっぱり蘭ちゃんじゃないか!」
不意に響いた声に、蘭と志保は同時に振り向く。
二人の視線の先には、山口の姿があった。

「いやー、もう会えないじゃないかと思ってたんだよ」
山口には二人の複雑な胸の内を知る由もなく、一週間振りの蘭との再会を喜び、その表情を緩ませていた。

「すみません、山口さん。今日までこちらに来れないままで……」
「いいってことよ。それより、緑と大地のこと、本当にありがとうな!」
「いえ、私は大したことはしてませんから……」
「いや、新一からちゃんと聞いてるよ。あの姉弟を安全な場所まで連れて行ってくれたのは、蘭ちゃんのお蔭だったんだろ?」
「私は本当に何も……」

蘭は困惑していた。今日、教会に来るまでは、どんなにか新出や山口たちとの再会を楽しみにしていたはずなのに、思うように言葉が続かない。ただぎこちなく微笑むことしか出来ずにいた。

「山口さん、そんなに大きな声で矢継ぎ早に話されたら、蘭さんだって返す言葉に困ってしまうでしょ?」
「おお、それもそうだよな。悪かったな、蘭ちゃん。そうだ、河野や谷内も新出先生やそこにいる志保先生のおかげで、だいぶ元気になってな。どうだ、様子を見に行ってみるか?」
「あ、はい」

すれ違い様に志保に再び頭を下げ、山口に連れられ蘭は図書館を後にした。

その後、蘭は新出や山口から色々な話を聞く。
大渡間周辺は未だ混乱しているものの、犯人捜しは襲撃当日とその翌日のみで、それ以降は一切行われていないこと。
襲撃に関わった者の多くが、移住者を受け入れてる鳥矢へ向かったこと。
その鳥矢では一切、襲撃犯捜しは行われていないこと。
他の教会での集会が、襲撃後に急激に増えていること。
元々、枢機卿や大司教以外には治外法権だったこともあり、各教会には一切の監視や弾圧等が加えられていないこと。
等々・・・

それから二日後のこと。
蘭の姿は、街外れのカレッジ図書館にあった。

人気もまばらなその部屋で、読むわけでも無しに次々と本に手を伸ばす。蘭が選んだ本は全て、かつて新一が手にした本だった。

「いつ来るかもわからないのに、もしかしたら来ることすらないかもしれないのに、ずっとここで待ってるつもりだったのか?」
近付いてくる靴音に気付かなかったわけではない。
蘭は振り返ることなく、大きく頷いて見せた。

「ったく……」
「きっと……、ううん、必ず、来てくれると信じていたから……」

およそ十日ぶりの訪れた噴水の周りには、かつての華やかさは無いものの、相変わらず数多くの人で賑わっていた。近くのカフェでは、以前にも増して、血気盛んな若者たちによる演説が続いている。新一と蘭はそのような中でも、他と比べて少し落ち着きのあるカフェに入った。

「お父さんとは、よく話し合ったのか?」
「うん」
「そっか……」
「これから起こる動乱を、遠巻きに眺めながらやり過ごすことも出来るのかもしれないけど、あの日の大地君のような姿を、私にはとても見過ごすことは出来そうにないから。それに、前に約束したでしょ? あの丘に二人でまた行こうって。ここで離れ離れになってしまったら、あの約束は守れなくなってしまいそうで……。私に何が出来るのかはわからないけど、新一の力になりたいの」
「この先、どれほど危険な目に遭おうとも?」
「うん」
「常に緊張した生活を強いられるとしても?」
「覚悟は出来てる」
「……わかった。それなら、俺が全力で蘭のことを守るから」
「え?」
「誤解するなよ? 蘭を巻き込んでしまったからとかそういうんじゃなくって、俺はただ、大切な人を守りたいというか……、身近な人を守れずして得られるものなど、たかが知れているから、だから……。何か上手く言えないけど、とにかく、ありがとう、蘭。蘭の勇気に感謝しなくちゃな」
「新一……?」

Back  Next

▲ Page Top