その朝、蘭は底知れぬ胸騒ぎに襲われ、目を覚ました。
悪夢にうなされたわけでもないのに、額や首筋には不快な汗が滲んでいる。
窓の外に目を向けると、夜明け前の街はまだ漆黒の闇に包まれていた。
すっかり目が覚めてしまいベッドを抜け出すと、水を求め台所へと向かった。
「どうした、蘭?」
「お父さんこそ、こんな早くからどうしたの?」
「そうさなぁ、たぶん、お前と同じようなもんだよ」
「え?」
光が失われた部屋で表情こそ見えないが、不意に掛けられた声は落ち着き払っていた。
暗闇の中、蘭の反応をよそに小五郎の言葉は続く。
「蘭、今夜からこの家に戻らなくていいからな」
「え?」
「突然で悪いが、今日から鳥矢に行こうと思ってるんだ。たぶん、戻るのは一ヶ月以上先になるだろうから、この家に一人でいるよりは、教会の世話になっていてもらった方が、俺も少しは安心だ。お前だって、いずれはそのつもりだったんだろ?」
「う、うん……。でも、どうしてこんなに急に? 昨日まで、そんな話は一言もなかったじゃない」
「すまないな。何て言うか、タイミングを逃しちまって……」
小五郎の言葉が一瞬途切れた。
窓の外に向けられたままの小五郎の背中に、蘭は深い哀しみを感じ取る。
それは、蘭が初めて見る父の姿だった。
「お前のことだから、俺がいなくても大丈夫だとは思うが、ただ、どんな時も自分の身を大事にすることを忘れるなよ? それと、同じ事をアイツにも伝えておいてくれ」
「アイツって、新一のこと?」
「ああ。人一人が出来ることなんて、高が知れてるってもんだからな……」
呟くような言葉を最後に、小五郎はそれ以上語ることは無かった。
街が目覚め、動き始める頃、小さなバッグを手に蘭は家を後にした。
この時には既に小五郎の姿は無かった。
通い慣れた道を進むうちに、蘭は街の異様さに気付く。大渡間監獄の襲撃以降もそれなりに活気に満ちていた街は、いつになく静寂で、不気味な落ち着きを見せていた。
今朝方の胸騒ぎと同じものを感じ、蘭は教会へと向かう足を早めた。
教会の入り口を前にし、蘭は足を止め、目を閉じる。
胸中を去来する不安を胸の奥底に押し込めるよう大きく深呼吸し、視線を上げ、目の前の扉を開いた。
「おはようございます」
「おはようございます、蘭さん。今日は随分と早く来られましたね」
驚きを隠せない様子で蘭を出迎えたのは新出だった。
ええ、とだけ答えると、蘭は苦笑いを浮かべる。
そして、すぐに真剣な表情へと変わり、深く頭を下げた。
「申し訳ありませんが、今日からこちらにお世話になっても宜しいでしょうか?」
「もちろんですよ、蘭さん」
新出の快諾に、蘭は安堵の胸を撫で下ろし、ありがとうございます、と再び深々と頭を下げた。
二人のやりとりを聞きつけ、二人の元に教会内の人間が集まり、次々と蘭に声を掛けていく。その取巻きから少し外れた場所に、普段は留守がちな新一の姿もあった。
「これで、ようやく安心できそうね?」
「あ、ああ……」
志保の問い掛けに無愛想に答えると、新一は蘭の元へと近付き、無言で蘭のバッグを手に取った。
「お父さんは大丈夫なのか?」
「うん」
「そうか……」
二人の会話に分け入る者はない。
二人はそのまま教会の奥へと向かった。
志保が使ってる部屋の前で新一は足を止め、手にしていたバッグを蘭に返した。
「志保とは相部屋になるけど、あいつは寝る時くらいしかこの部屋は使っていないはずだし、そんなに気を使わなくていいからな」
「志保さんとなら、私は何も心配してないわ。きっと大丈夫よ」
迷いのない蘭の笑顔に、新一も微笑を返し、静かに頷いた。
「あ、そうだ。お父さんから伝言があるの」
「俺に?」
「うん。自分の身を大切にするように。人一人で出来ることなんて高が知れてるからって、そう伝えてくれって……」
「高が知れてるか。その通り、かもな……」
小五郎の言葉をかみ締めるように呟くと、新一は誰に見せるでもない苦笑いを浮かべた。
蘭に部屋に入るように促し、新一はその場を後にする。
振り向き様に新一が残した、今日で正解だったよ、との言葉の意味を、蘭はこの時、想像することは出来なかった。
午前中の診療を済ませた志保の耳に、遠くで大勢の人々が騒ぐ声が聞こえてきた。志保は慌てて中庭に向かう。中庭には既に新一や蘭、そして、新出や京極の姿があった。人々の声は、まるで津波が押し寄せるように高まり、大きくなっていった。
『パンをよこせ!』
『ミルクをよこせ!』
人々の喚声が次第にはっきりしてくる。
それらの多くは、この国の歴史上、決して声を荒げたことのなかった女たちの声だった。
「まさか、暴動!?」
「らしいな……」
蘭の問いかけに、新一が静かに答えた。
「新出先生、念のため、教会の全ての窓や出入り口の鍵をかけましょう。今は比較的統率は取れているようですが、いつ彼らが暴徒となるかはわかりません。現に、男たちの声には狂気が見え始めてますし。暴徒と化した彼らが、ここを襲わないとは限りませんから」
「ええ、そうですね」
『武器を手に取れ!』
『我らに権利を!』
新一の言う通り、徐々に男たちの声が強くなっていく。
「それでは皆さん、手分けしてお願いします」
新出の言葉を合図に、その場にいた誰もが方々に散った。
新一が最後の扉に鍵を掛けようという時、慌てた様子で一人の男が駆け込んできた。
「山口さん、どうしたんですか?」
「いやな、ちょっと気になったことがあって、お前に相談しようと思ってさ」
山口は乱れた呼吸のまま答えた。
最後の扉に鍵を掛け、新一は山口と共に中庭へと向かう。
中庭には、今朝、蘭が来た時と同様に、全員が集まっていた。
その中で呼吸を整えた山口が話し始めた。
「今朝早くのことなんだが、大渡間に口髭を蓄えた小太りの、身形もそれなりの一人の男がやってきて、『これからこの国の根本を揺るがすような面白いことをやるから、お前たちも来ないか?』って誘いに来たんだ。一応、詳しく話を聞いてみると、現状に少なからず不満を抱いている人々を集め、贅沢の限りを尽くしてる元老院に大挙して押しかけようって言うんだ。俺もそいつの言うこと自体はわかるし、賛同する面もあるんだが、ただ、その話をする時のそいつの顔が、やけに余裕があったというか、薄気味悪い笑みさえ浮かべていたもんだから、どうにも信用できなくってな……」
「では、山口さんは断ったんですね?」
「ああ。そんな大それたこと、すぐには返事は出来ないって言ってな」
「それで、山口さんの返事に、その人はどんな反応を?」
「一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに『後からでもいいから、気が向いたら来てくれ』と、いかにも社交辞令っぽい笑みを浮かべて、そのまま大渡間を後にしたよ。 なあ、新一、どう思う? 何だか胡散臭いと思わないか?」
「そうですね……」
それだけ答えると、顎に手をやり、新一はその場で一人考え込んだ。
山口が不審に思うのも、無理のないことだった。
新一たちが大渡間の監獄を襲撃して以来、大渡間に残ったのは、山口を含め十数人ほどしかいない。あの襲撃に大渡間の住民が少なからす協力していたのは、誰の目にも明らかなことだった。そのため、他の住民は報復を恐れ、鳥矢などに移っていたのだ。
その僅かな住民しか残っていない大渡間に、わざわざ人出の必要な行進への参加を呼びかけに来るなど、不自然でしかなかったのだ。
「この騒動の主導者は、意外と切れ者かもしれねーな」
しばしの沈黙の後、新一は誰に聞かせるでもなく呟いた言葉に、その場にいた誰もが困惑の表情を隠せずにいた。彼らの疑問に答えるように、新一は言葉を続けた。
「国王とその側近たちは、三日前から米花を離れている。彼らはその隙に乗じて騒動を起こしたんです。なぜなら、大渡間監獄の襲撃時に、要所を守る護衛隊や治安部隊らにかつてほどの統率力はなく、衰退してることが明らかになった今、この国で警戒が必要なのは、国王直属の軍と近衛部隊くらいのもの。国王がいない以上、それらの軍を直ぐに動かすのはまず無理。仮にこの騒動が暴動になったとしても、相手が不甲斐なければ、勝機があるだろうと考えてのことでしょうから」
「なるほど……」
「ところで、山口さん。今朝のその男の誘いに、誰か乗った人はいませんでしたか?」
「あ、ああ。威勢のいい若い奴らが何人か付いていったようだったが」
「それはまずいですね……」
新一の表情から余裕が消えていく。
その新一の様子に、山口の表情にも焦りの色が見え始めた。
「まずいとは、どういうことだ、新一?」
「軍の人間から見れば、大渡間の住民は敵でしかないんです。先日の襲撃で、軍の権威は失墜したわけですから。なので、もし彼らに大渡間の住民だと知られてしまったら」
「否応なく、目の敵にされるわね」
新一の言葉に続けたのは志保だった。
二人の真剣な表情に、誰もが事の重大さを思い知る。
「最悪の事態は、大渡間の人たちを行進に参加してる人たちの士気を高めるための象徴にし、状況が不利になったとみれば、今度はかませ犬として軍に渡し、取引の道具とされかねないということです」
「だとしたら、早くそいつらを連れ戻さないと」
「ええ、そうです。事は一刻を争います。かなり危険ですが、山口さん、協力頂けますね?」
「ああ、もちろんだ!」
「私も行くわ!」
新一たちの間に割って入ったのは蘭だった。
「ダメだ!」
「どうして? 私ならここに出入りした人の顔はわかるし、絶対力になれるはずだから」
「いや、蘭はここに残ってくれ!」
蘭の表情は大地と初めて出会った時と同様に真剣なもので、蘭の意思の強さは明らかだった。だが、新一は首を縦に振るわけにはいかなかった。
今はまだ行進を続けているだけだが、次第に彼らが興奮状態となり、烏合の衆となるのは時間の問題だった。女子供でさえ容赦のない抑えの効かぬ、無秩序な武装集団の流れの中に蘭を巻き込むのはあらゆる意味で危険すぎる。人一倍強い正義感は傷付いた者たちを見過ごすのに邪魔になるし、人一倍優しいその心は、人々の狂気で深く傷付いてしまう。自分一人で守り通す自信がない以上、少しでも安全なこの教会に残していくしか、新一には選択肢がなかった。
「なら、俺が行こうじゃないか!」
二人の間に流れる気まずい空気を断ち切るかのように声が上がる。襲撃以来、この教会で暮らしてきた河野の声だった。
「お言葉はありがたいんですが、もう怪我は大丈夫なんですか?」
「ああ。今朝の検診でも、もう心配ないってことだったし。だよな、志保先生?」
「え、ええ」
「本当に大丈夫なのか、志保?」
「ええ、問題ないわ」
「新出先生も宜しいんですか?」
「ええ、歓迎はしませんが、大丈夫です」
「では、すみませんが、河野さんにも強力をお願いしましょう」
「ケガが治ったばかりの河野さんが良くて、どうして私じゃダメなの? 私はそんなに信用できないの?」
蘭の右手が新一の左手を捉える。
蘭の必死な申し出にもなお、新一は首を大きく横に振った。
「違うよ、蘭。万が一、この教会が襲われた時のことを考えて、蘭には守り要員として、ここに残って欲しいんだ」
「で、でも……」
未だ納得しない蘭の様子に、今度は言葉で説明するより先に新一の体が動く。
蘭が捉えていた左手で蘭の右手を掴み返すと、一気に引き寄せ、強く抱き締めた。そして、蘭の耳元に二言三言、周りの人に聞こえぬように囁くとすぐに蘭を解放し、大丈夫だよ、蘭、とまるで子供を諭すかのように言葉を掛けた。
新一の言葉に、蘭はおとなしく頷くことしか出来なかった。
何事も無かったように、新一は言葉を続けた。
「京極、お前もここに残ってくれ。お前の強さは時として目立ち過ぎるからな。万が一の時は、頼んだぞ?」
「は!」
「それでは、山口さん、河野さん、早速、行きましょう」
新一たちが教会を立ち去ってなお、その場にずっと立ち竦んでいる蘭に、志保は静かに声を掛ける。
「蘭さん、新一様はあの時、あなたになんて言ったの? もちろん、答えたくなければ、言わなくても良いのだけど……」
「新一は……、あの時、新一が言ったのは、『必ず戻ってくるから、蘭にはここで待ってて欲しい。今まで俺が約束を破ったことはないだろ?』って……」
「それだけ?」
「ええ、それだけ……」
新一が蘭に伝えた言葉は、確かにこれだけだった。
ただ、蘭の耳に、体にと言った方が正しいのかもしれないが、今も残っているは、この言葉ではなく、いつもより強く、そして速い、新一の鼓動だった――――
この日、新一たちが教会に戻ったのは、深夜になってからのことだった。