この日、早朝から人々は王立歌劇場に押し寄せていた。大劇場の座席は全て埋まり、大劇場に入り切らなかった人々は、出入り口の扉で聞き耳を立て、建物にすら入れなかった人々は、窓から食い入るように建物の様子を窺っていた。
ここに集まった人々の目的は歌劇や舞台などではない。
この日、東都王国史上初の市民の傍聴を許された特別議会を見守るためであった。
「しかし新一、よくこんな特等席を確保できたな?」
「まあ、いろいろとコネを使いましたから」
山口の問い掛けに、新一は苦笑しながら目の前の手摺に右腕を乗せ、顎に手をやりながら眼下を見下ろした。
新一たちは人々の喧騒とは少し離れた場所にいた。舞台から見て右手の、二階桟敷席である。決して広いとは言えないその個室で、舞台を見下ろす手摺の前に、新一と蘭と山口が椅子を並べて座り、彼らの背後、入り口に京極が控えていた。
特別議会が開かれることになった経緯は、十日ほど前にまで遡る。
その日、王都である米花の街で、この国の歴史上類を見ない、大規模なデモ行進が起きた。当初、元老院に向かっていたデモ隊は次第に暴徒化し、国会議事堂や王立裁判所、主要な寺院等、特権階級と関わりの深い施設に次々と押し寄せていった。
新一もまた山口や河野とともに、このデモ行進の渦中にいた。と言っても、デモに参加していたわけではない。体良く利用されそうになっていた、かつての大渡間襲撃の仲間を助けるためであった。新一たちがデモを抜け出したのは一日目の夜の帳が下りる頃、デモそのものが治安部隊の鎮圧によって終局を迎えたのは、二日目の空が茜色に変わる頃だった。
この鎮圧から三日後、王宮から国民に向け、この日の特別議会の開催が布告されたのである。
「ねえ新一。どうして、議会なのに国会議事堂ではなく、王立歌劇場なの?」
蘭の問い掛けに、新一は薄く微笑み、答えた。
「たぶん、元老院の連中が反対したんだろうな、『権威ある議事堂に市井の者など入れるな!』とか何とか言って。まあ、そのお蔭でこれだけの人数が議会の傍聴を出来るようになったのだから、結果的には良かったのかもしれないな。それに……」
「それに?」
「この先王の無駄遣いで作られたこの歌劇場も、それなりに国民の役に立つともわかったことだし」
え?と蘭は新一を見る。二人のやりとりを聞いていた山口もまた、新一に視線を向けた。二人とも新一の言葉の意図がわからなかったのである。
「この王立歌劇場は先王の命によって造られたことは、二人とも知ってますね」
蘭と山口は頷く。
「先王は決して暗君ではなかったが、名君でもなかった。政は堅実にこなしていたのだが、ただ浪費が過ぎた。彼の愛妾の気を留めておくために、国費を湯水のように使ってしまった。この無駄に馬鹿でかい王立歌劇場もそんな浪費の一つ……」
蘭と山口はまじまじと歌劇場内を見渡す。
一呼吸を置いて、新一は言葉を続けた。
「先王が四十代前半にして王位を退いたのは、いつ国庫が破綻してもおかしくないところまで来ていたからで、その結果、官吏らによって失脚させられた。その後の混乱を最小限に抑えるために、先王と関わりの薄い現国王が選ばれた。いわゆる傍系の国王の誕生……」
傍系?と首を傾げる蘭の姿に、新一は自嘲気味に笑う。
「そう言えば、市井の人には、王家の家系についてはあまり知られていないんだっけ?」
蘭は小さく頷く。
「この国の国王は、国のもの、国民のものとなるといった意味合いもあって、王位に付くと同時に姓を失うと決められている。しかも、基本的には世襲制を採っているから、元々、姓を持たずに生まれてきて、そのまま国王になる場合が多い。確か、先王までで直系が六代続いたんじゃなかったかな。そんな感じだから、市井の人が自分たちとは異世界の話とでもいうか、漠然として王家を捉えているのは、当然と言えば当然だろうな」
「そっか……」
「ただ、宮中の人間だとそうはいかない。傍系の国王というのは、直系ではないというそれだけで、官吏たちからの信用が得られないそうだ。そうなると、どれほど施政に身を尽くしても、思うように結果を残せるはずがない。現国王もその例に漏れないらしいな」
「新一、お前、一体何者なんだ?」
山口の声に、新一は振り返り、軽く笑う。
「さあ。家から追い出されてるから、浮浪貴族ってとこでしょうか?」
「浮浪貴族だと!?」
山口は呆れたように目を見張る。
新一は苦笑し、再び眼下に視線を向けた。
「そろそろのようですね」
「あ、ああ……」
山口は我に返り、新一の視線の先を追った。
大劇場の客席の前方には、司教ら上級僧侶や元老院等の宮廷貴族といった会議の出席者が陣取る。その背後に、学者や特権商人、市民勢力の代表といったような人々が席を埋めていた。
上級僧侶や宮廷貴族たちとそれ以外の者との間では、まだ会議が始まっていないというのに、至る所で討論がされていた。半ば呆れ気味に彼らの様子を見ていた山口の目が、見覚えのある男の姿を捉えた。
「あいつは、あの時の!」
山口の右手が、市民代表の最前列で意気揚々と論じている、小太りで髭を蓄えた男を指差した。
「山口さん、彼が先日大渡間に行進の誘いに来たという男なんですね?」
「ああ、そうだ」
山口が力強く頷いた。
新一はその男を注視する。かつて山口が言ったように、その男にはどこか薄気味らしさが漂っていた。身形は決して品が良いとは言えないものの、遠目にもそれなりに上質なもののように見える。余裕を湛えたその表情から、かなりの自信家ぶりが窺えた。
「断って正解だったようですね」
独り言のように新一は呟く。
と同時に、轟音が鳴り響いた。正午を知らせる、そして、議会の開始を知らせるための号砲である。
号砲を合図に、劇場内の空気が一気に緊張する。僅かに囁く声が、なおもそこかしこから聞こえていた。
直後、人々の視線が舞台に集中する。議長と思われる白髪の男を先頭に、黒衣を身に纏った数人の男たちが現れ、あらかじめ用意された席の前に立つ。そして、彼らの動きが止まり僅かの後、最後に二人の男女が登場する。国王と王妃である。本来であれば、大きな歓声と拍手でもって迎えられるはずが、静寂に包まれる中での登場だった。
しばしの沈黙の後、場内がにわかにざわめきだす。彼らが混乱するのも無理はない。ここ一年あまり、体調を崩しているからと公の場にほとんど現れることがなかった王妃の姿があったからである。
「お二人とも、随分とやつれられたな……」
「え?」
目を見開いた蘭に、新一は僅かに困ったような表情を浮かべた。
「何度かお会いしたことがあるから……」
「そうだったんだ……」
どこか憂いを帯びた新一の瞳を捉え、蘭はそれ以上に問うことができなかった。
蘭は舞台上へと視線を移す。思い起こせば、表情を確認できるほどの近くで国王と王妃を見るのは初めてだった。蘭は自然と国王の背後に座る王妃に視線を奪われる。今は病がちゆえその顔色は青白くあったが、かつて諸外国にまで伝わったという『玲瓏たる美女』との声は疑いようがなかった。
(あの方がお母さんの・・・)
蘭は胸の奥底で何かが軋むのを感じた。
場内に木槌を打つ音が鳴り響き、場内に静寂が戻る。
『これより、臨時の特別議会を開会する』
議長が宣言し、舞台上の人々が着席するのを待って、異例の特別議会は始まった。
議会は当然のように紛糾した。
議員らが何か発言をする度に傍聴人から怒声が飛び、彼らに反論しようものなら、今度はヤジを浴びせられる。刻々と時間は過ぎるものの、議事は一向に進行しなかった。
号砲から三時間が経過しようという頃だった。
喧騒の中、議長の木槌が鳴り響く。が、議長は何も語らない。場内の誰もが訝しげな表情を浮かべるが、議長の意図を直ぐに理解することになる。直後、それまで沈黙を続けていた国王が口を開いたのである。
「ここでの皆の意見は私なりに理解したつもりでいる。そこで、私から提案があるのだが、どうか聞いてもらえるだろうか?」
王の問い掛けに、答えるものはいない。
場内を見渡し返答が無いのを確認して、王は席を立つ。
「これより一ヶ月の後、再び、この場で議会を開く。それまでに、各地にて代表者を選び、次の議会に議員として出席を許し、皆の意見を改めて聞こうと思うのだが、いかがであろうか?」
陛下、そんな、と場内前方から異論の声が次々と上がるが、これらはまったく黙殺される。反対に、場内の大部分から賛成の意を示す歓声が上がった。
困惑の表情を浮かべる現議員たちのほうを見やって、王は言葉を続けた。
「この国を成しているものは、私を含め、城内や教会を居とするものではない。土を耕し作物を作るもの、ものを生産するもの、それらを売り買いするもの、そういったものたちの働きによってこの国が成り立っている。私たちはそのことを決して忘れてはならない。そうではなかったか?」
王はひどく静かな声で言い放った。
三度、場内に木槌の音が鳴り響く。
議長が近日中に議員の選出方法等の詳細を布告するとの旨を最後に伝え、混乱を極めた議会は閉会した。
「こいつは大変なことになった。俺はとりあえず大渡間に戻って、このことをみんなに知らせてくるわ」
新一が頷くの確認し、山口は慌てて桟敷席を後にした。
「確かに、おもしろいことになったな。陛下は思い切ったことをなさる……」
舞台から退場する国王と王妃を目で追いながら、新一は苦々しく笑う。
一つ息を吐いて、視線を未だ混乱する観客席へと向けた。新一の目があの胡散臭い男を捉える。彼は長身痩躯の、いかにも怜悧そうな顔立ちの、三十歳前後に見える男と話し込んでいた。
(あの男、確かどこかで・・・)
新一は思わず顔をしかめた。
「京極」
「は!」
「悪いが、あの二人の男について調べて欲しい。特に、あの長身の男の方は念入りに頼む」
「畏まりまして」
深く一礼すると、京極は踵を返し、足早に退出していった。
蘭は戸惑っていた。先ほど来の胸中の軋みが邪魔してなのか、それとも、自分の想像を超えた勢いでこの国が変わろうとしていることに不安を感じてなのか、新一に掛けるべき言葉が見つからない。蘭は思わず胸を押さえた。
「そろそろ教会に戻ろうか?」
眼下に視線を向けたまま、新一は蘭に問い掛ける。蘭は言葉を返せずにいた。
「きっと、いつも以上に賑やかになっているだろうしな」
首をかしげた蘭に、新一は柔らかに笑う。僅かに胸のつかえが軽くなったように感じ、蘭は頷いた。
新一の言った通り、教会はいつになく人で溢れていた。まだ夏には早いとは言え、強い日差しが降り注ぐ下、興奮状態の群衆の中にあって具合が悪くなった者やケガをした者等が、次々と教会を訪れていたのである。
新一と蘭もすぐに新出や志保の手助けにあたった。野戦病院とまではいかないものの、教会は混乱し続け、その混乱は西の空が完全に茜色に変わる頃まで続いた。
いつもの落ち着きが戻る頃、教会に京極が戻った。新一は診療室を後にし、京極と二人、図書館へと姿を消した。
全ての患者の治療が終わり、蘭が夕食の支度に取り掛かるために奥の水場に向かうと、その途中、図書館の前で新一の姿を見つけた。
「京極さんは?」
「ついさっき出掛けたよ。多分、今夜は戻らないだろうから、京極の分の夕食は用意しなくていいから。俺の分も要らないかな……」
「え? 新一もこれからどこかに行くの?」
「いや、どこにも行かないよ。ただ、部屋でコイツを読んじゃおうかと思ってさ」
見ると、新一の右手には、分厚い本が何冊か抱えられている。
「国史?」
「ああ。ちょっと気になることがあってな」
言って新一は軽く笑うと、蘭が歩いてきた廊下を戻っていった。
「どうかしたの、蘭さん?」
テーブルについてから、一口も料理に手を付けようとしない蘭に、志保は問い掛けた。
「余計なお世話だとは思うけど、新一の部屋に夕食を運んだ方が良いのかなって思いまして……」
蘭は志保を見返し、ぎこちなく笑う。
「そうね。蘭さんが運ぶのなら、食べるかもしれないわね」
言うと志保は軽く頷き、柔らかな笑みを浮かべた。
「新出先生、そうしても宜しいですか?」
「ええ。毎回と言うわけにはいきませんが、今夜くらいは構いませんよ」
「ありがとうございます」
満面の笑みを浮かべ頭を下げると、蘭は手早く二人分の食事をトレーに乗せ、去り際に再び頭を深く下げ、足早に食堂を後にした。
「何とも初々しいね」
立ち去る蘭を見やって呟いたのは谷内だった。
新一たちが大渡間監獄を襲撃した際に重症を負った谷内は、以降、この教会に入院し、治療を続けていた。入院当初はベッドの上で起き上がることも困難なほどであったが、懸命なリハビリもあり、最近は、左足を僅かに引きずる程度で、新出らの手伝いができるまでに回復している。谷内は今や単なる入院患者ではなく、こうして新出らと一緒に食事を取るようになっていた。
「そうだ。この機会だから、志保先生に一つ聞きたいことがあるんだけど?」
人懐っこい笑顔を浮かべたまま、谷内は志保の顔を見た。
「何かしら?」
「あの二人、新一と蘭ちゃんのことだけど、実際のところ、どういう関係なんだ?」
「え?」
志保は目を見張った。
「いやさ、どうしても単なる恋人同士って感じには見えなくってさ。ほら、見るからに身分違いだってのはわかるだろ? だから、最初は駆け落ちでもして、行き場所に困ってるのかなと思ってたんだけど、でも、そいつはすぐに違うとわかったわけで。志保先生と新一の関係も妙と言ったら妙なんだけど、それ以上に、あの二人の間には違和感があるんだよなぁ」
と言って、谷内は腕を組み、首を傾げた。
「そうかもね」
とだけ呟き、志保は自嘲するように笑う。
視線は何を捉えるでもなく、あらぬ方へと向けられた。
「私にもよくわからないの」
「え?」
「お互いに好意を持っているのは間違いないのでしょうけど……、私には、あの二人は何かを補い合っているように見える……。そう、無意識のうちにお互いを必要としているとでも言うか……」
志保は小さく溜め息を漏らした。
「太陽と月のようなものですかね?」
口を挟んだのは新出だった。
「太陽と月、ですか?」
「ええ。新一君は温かい包み込むような優しさを求め、蘭さんは内に秘めたる強さを求める。太陽と月を求めてるようなものなのかなと。志保さんの話を聞いていて、ふとそのように思ったんです」
ああ、と志保は思わず頷いた。
「それは、的を射た表現かもしれませんね……」
志保は苦笑する。
「偶然なのか、そうでないのかはわからないけど、この混乱の世にあの二人は出会った。実際の太陽と月が重なると蝕がおき、何らかの変異をもたらすと言われているように、あの二人の出会いがこの国を変えようとしているのかもしれない……」
そう言って、志保は薄く笑み、窓越しに映る十六夜の月を見上げた。
静か過ぎる、と蘭は思った。
昼間の喧騒が嘘であったかのように、辺りは静まり返っていた。
未だ迷いのある中、蘭は意を決してドアを叩いた。
「あの、新一、ちょっといい?」
間もなくして、ドアが開く。
「邪魔しちゃうとは思ったんだけど、今日はずっと忙しかったし、食事はちゃんと取った方が良いと思って……」
遠慮がちに言う蘭の手元を見やって、新一は自嘲気味に笑った。
「ありがとう、蘭」
チェスト代わりの収納棚で簡易テーブルを作り、蘭と新一は向かい合うように座った。
「今夜くらい食べなくても平気だと思ってたけど、実際に目の前にすると、かなり腹が減っていたみたいだな」
そう言って軽く笑むと、新一は蘭が作ったスープに手を伸ばした。
そのまま他愛も無い話をし、二人は食事を済ませる。これ以上邪魔になってはいけないと、蘭が新一の部屋を後にしようする。が、新一が蘭の手を取り、引き止めた。
「このまましばらく居てくれないか?」
「え? でも……」
「今日はもう、読むのは止めた。ここでグダグダ考えていても、仕方が無いことだしな。それに……」
「それに?」
「俺に聞きたいことがあったんだろ?」
蘭は思わず目を見開く。ややあって、うんと遠慮がちに頷いた。
食器を載せたトレーを机の上に置くと、新一に促され、蘭は新一の傍らに座る。
「蘭はどう思った、今日の議会を?」
「どうって言われても……」
「だよな」
と、新一は苦笑する。
蘭が答えられないのも無理はない。議会は終始、怒声のぶつけ合いでしかなかったのだから。
「直接見たわけではないけど、たぶん、今までの議会だって、今日と大差ないんじゃないかと思う。中身のある議論がなされてないって意味においては……」
と言って、僅かに顔をしかめた新一を、蘭は困惑の眼差しで見つめていた。
「歌劇場からの帰り道、この国にようやく夜明けが訪れようとしている、人々はそう口々に言っていたが、俺はそうとは思わない。むしろ、これから日が暮れようとしているように思う。想像しようも無い闇への恐怖を紛らわすための、宵の口の空騒ぎとでも言うか……」
「もし、そうだとしたら、この先、情勢が悪化するということも?」
「おそらくは……」
と言って、新一は言葉を切る。しばしの沈黙が流れた。
「もしかしたら、国王は全てを一旦、無にしようとしているのかもしれない……」
「え?」
「何かを変えようとする時、それまでのものを壊してしまわないと先には進めない。あの国王なら、そう考えていたとしても、不思議ではないってことさ」
新一は苦々しく笑い、蘭の方に振り返った。
「そんな……」
蘭は絶句した。
「たとえそうだとしても、夜明けは必ず訪れるものだよ、蘭」
言って、新一は薄く微笑む。
「悪いな、心配させるようなことばかり言って……」
「ううん」
蘭は首を横に振る。
「蘭が聞きたかったのは、こんな話じゃないのにな」
言って、新一は自嘲するように笑った。
「噂でしか聞いたことが無いのだけど、王妃付きの女官は優秀な人材が揃っているそうだ。その中でも女官長は特に優秀で、王妃からも国王からも信任が厚く、下のものからも慕われていると聞いた。宮中で女官は普通、名前で呼ばれるから、姓まではわからないが、確か名前は……、英理さんと言ったかな」
「英理って……、まさか、お母さん?」
「やっぱりそうだったか……。その英理さんが王妃付きになったのが十年ほど前と聞いてたから、もしやと思ったんだけど…、蘭が聞きたかったのは、お母さんのことだったんだろ?」
「う、うん……」
目を見開いたまま、蘭は小さく頷いた。
「お母さんが、王妃様の女官長?」
笑みと共に涙が零れる。
(あれ? どうして涙なんかが……)
暖かいものが頬を触れ、そっと涙を拭ってくれる。
「悪い、蘭。もっと早く教えてあげれば良かったんだろうけど……」
「ううん……」
と首を振り、蘭はぎこちなく笑って見せた。
蘭はいつの頃からか、母は自分の住む世界とは決して交わらない場所にいる、そんな風に思っていた。確かに、今でも手紙のやり取りこそあるが、心のどこかで母の存在を疑っていたのかもしれない。
(そうだよね。同じ空の下で生きているのよね)
幼き日の大切なおまじないがふと脳裏を過ぎる。
間接的とは言え、新一の言葉はそんな蘭の不安を拭い去るには充分だった。
「何て言えばいいのかわからないんだけど……。お母さんと今でもちゃんと繋がってると思ったら、安心して急に涙が溢れちゃって……。ゴメンね、新一……」
蘭は目を潤ましたまま、ふわりと笑う。
「何度も言うようだけど、夜は必ず明けるもの。夜が明ければ、お母さんとも会えるようになるさ」
そう言って、新一は柔らかく笑った。
優しく髪を撫でてくれる掌が暖かい。蘭はそのまま新一の胸に顔を埋めた。
「……うん、ありがとう……」