14. 別離

大通りに面したそのカフェは、いつに無い混雑ぶりを見せていた。テラス席では老いも若きも意気揚々と演説を続けている。僅かに落ち着きを見せる店内の片隅で窓越しに大通りを望みながら、阿笠はこの日、何度目かわからない溜め息を零した。

間もなくして、待ち人の姿を視界に捉えて右手を上げると、阿笠はこの日、初めての笑顔を浮かべた。

「わざわざ呼びつけるような真似をして、すまんかったのう、新一君」
「どうせあの男の差し金だろ? 博士が気に病むことじゃないさ」
新一の言葉に阿笠は目を見張り、ややあって、苦笑いを返した。
新一と、困惑の表情を浮かべたままの蘭を座るように促し、阿笠は三人分のコーヒーを注文した。

「二人とも元気そうで何よりじゃ」
「博士は少し痩せたんじゃないか?」
「そ、そうかのう」

店員が立ち去るのを待って、新一が口を開いた。

「紹介が遅くなったが、博士、彼女が蘭だよ」
「志保君から話は聞いているよ。すまんのう、あなたまで呼びつけてしまって」
「いえ……」
「で、彼が志保の遠い親戚の阿笠博士」
「毛利蘭です。はじめまして……」
蘭は深々と頭を下げた。

「いつぞやはお屋敷で志保さんにお世話になりまして、いずれお礼をと思っていたんですが……」
すまなそうな顔を浮かべる蘭に、博士はなんの、と笑う。
「あの時は二人とも大したことにならなくて、本当に良かったのう」
阿笠が人懐っこい笑顔を浮かべるので、蘭もどこかぎこちなく微笑みを返す。ほっと胸を撫で下ろし、緊張の糸を解していった。

「まあ、挨拶はそれくらいにして。で、博士。父さんからの伝言は?」
「あ、ああ……」
躊躇う様子の阿笠に新一は苦笑し、ふぅと息を吐き出す。
「さっきも言っただろ? 博士が気に病むことじゃないって」
阿笠ははっとしたように顔を上げた。

「君の父さんから言われたことをそのまま伝えるんじゃが……、『この城の中にお前が戻る場所はもはや無いと思え、そう伝えてくれ』と……」
え?と目を見張った蘭に、新一は自嘲するように笑った。
「蘭が心配するような話じゃないから」

阿笠の方に向き直り、新一は言葉を続ける。
「それは、父さんが覚悟を決めたってことだよな?」
「そういうことじゃろう……」
「これでようやく腹を括れるな」
なおも心配そうにしている蘭の左手を、テーブルの下で新一はそっと握り締めた。
「大丈夫だから……」

「志保のことだけど……、博士が望むなら、この機会に城に戻すが?」
「さっき、志保君とも話したのじゃが、このまま新一君の側にいさせてくれないかのう? こういう機会だからこそ、志保君には市井の中で生活することが必要なのじゃろう……」
「博士は本当にそれでいいのか?」
「実際に志保君の顔を見たら、城にいる時よりもずっと活き活きしておったからのう。わしもここのところずっと城に詰め続けているし、新一君の側にいるほうが、志保君も寂しい思いをしなくて済むじゃろうから……」
そこまで言って、阿笠はコーヒーを口に含む。その味は、いつも以上に苦く感じられた。

「そうそう、君のお母さんからも伝言があるのじゃが……、くれぐれも体に気をつけるようにと言っとったぞ」
「その言葉、そのままそっくり返してくれないか? それと、これは二人に伝えて欲しいんだけど……」
新一の目が真っすぐに阿笠の目を捉える。
「『あなたたちの息子に生まれて良かった』と」
新一の言葉に一瞬驚いたものの、阿笠はすぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「君たち親子は本当に良く似ているのう」

「すまぬが、蘭さん。あなたに新一君のことを頼みたいのじゃが?」
「え?」
どういう意味だ?と新一が口を挟むが、阿笠は構わず言葉を続ける。

「新一君は昔から、己は無きものとして無茶をするところがあるからのう」
ああ、と蘭は小さく頷く。
当の新一はさも面白く無さそうな表情を浮かべた。

「あなたの言うことなら、ワシらが言うより聞いてくれるじゃろうし、あまり無茶をさせぬようお願いしたいのじゃが」
「私に務まるかどうかわかりませんが……、はい、出来る限りのことは」
蘭の言葉に阿笠は破顔し、そして、深々と頭を下げた。

カフェを出て、別れ際。

新一は阿笠のほうに改めて向き直る。
「志保のことは、極力、危険に巻き込まないようにするから。それと、父さんと母さんのこと、どうぞ宜しくお願いします」
新一は深く頭を下げた。

「新一君に頭を下げてもらおうとは」
僅かに阿笠は苦笑する。
「新一君にも、そして蘭さんにも、このことは忘れないで欲しいのじゃが……。君たちの両親はいつだって君たちの幸せを願っているということを。二人ともどうかご無事で……」
言って、博士は深々と頭を下げる。その表情にはどこか憂いが帯びていた――――

街は相変わらず祭りの様な人込みだった。
教会に戻る道すがら、新一は不意に足を止めた。

「傍から見たら、おかしな親子に思われるんだろうな」
「え?」
蘭はきょとんとして、新一の顔を覗き込む。新一はどこか切なそうに笑った。

しばらく考え込むようにして、蘭は前を見据えたまま呟く。
「前にも同じことを言われたよね?」
「同じこと?」
「うん。大地君と緑ちゃんの姉弟を送り届けて、米花に戻ってきた時に御者のおじさんにも言われたでしょ? 親はいつも子供の幸せを願っているって」
「ああ……」
「子供だって、親の幸せを願っているのにね。新一もそうでしょう?」
「あ、ああ……」
「だったら、ちっともおかしくないよ」
蘭は新一を見やり、ふわりと笑う。そして、王城の方へと向き直り、その上空を見つめた。

その夜。
教会には僅かに残った大渡間の住民たちが集まっていた。議会に提出する意見書の内容を話し合いをしていたのだが、いつの間にか、互いに酒を酌み交わし、小さな宴と変わっていた。

「やっぱり、ここにいたんだ」
中庭を望むように廊下で一人佇む新一の姿に、蘭はほっとしたように穏やかに微笑む。
「山口さんたち、新一が勝手に消えたって、文句を言ってたよ?」
蘭の問いに、新一はただ苦笑いを返すだけだった。

二人は中庭に下り、芝生に座る。
そのまましばらく、無言のまま、満天の星空を眺めていた。

「このままずっと、こうしてみんなと楽しく過ごせたらいいのにね。そんなこと無理だと、わかってはいるけど……」
囁くように言って、蘭は寂しげな笑みを浮かべた。
「できることなら、ここで出会った人たちだけでも、このまま平穏に暮らして欲しいと思ってる。独りよがりな考えだとは思うけど……」
「それは、独りよがりとは言わないよ、蘭」
新一は蘭に、柔らかな微笑みを返す。

「目に映る人だけでも幸せになってもらいたい。そう思う人が多ければ、それだけ多くの人の幸せを願っていることになるだろ? 俺だって同じさ。この先もまだ混乱は続くだろう。時には、否応無しに誰かが泣き叫ぶ姿や、互いを傷付けあう人の姿を見ることになるかもしれない。だからこそ、せめて、蘭やここで知り合った“仲間”だけでも、混乱に流されないでいて欲しいと思ってる」
うん、と蘭は小さく頷いた。

新一は再び、夜空を仰ぐ。
「やっぱり、この教会を危険に晒すわけにはいかないよな……」
「新一!?」
新一は自嘲するように笑い、山口らの声がする方へと視線を向けた。

「俺はこの教会を出ようと思う」
「え?」
「いつまでも居候ってわけにもいかないし、少しでもリスクは回避したいからな……」

ややあって、蘭が口を開く。
「何をしようとしてるの?」
新一は苦笑するだけで、何も答えようとしない。
蘭は小さくため息を零す。
蘭の脳裏に、先ほどの阿笠の言葉が思い出された。

「私も一緒に行っちゃだめかな?」
「蘭?」
「私も一緒だったら足手まとい?」
蘭の目は真っすぐに新一の瞳を捉えていた。

「……いや」
新一は首を横に振り、そして、目を伏せると一つ、大きく深呼吸をした。

「俺のこと、信頼してくれるか?」
「もちろん!」
「いつかの、あの森の時みたいに、勝手に一人で危険な場所に行かないと、誓ってくれるか?」
「うん!」

新一は再び、大きく息を吐き出す。
「迷う必要なんて無いよな。俺が全力で蘭を守るだけなんだから」
言い終わるや否や、新一は蘭を引き寄せると、包み込むように優しく抱きしめた。

この夜から五日の後、新出と志保に見送られ、新一と蘭は二ヶ月余り過ごした教会を後にした――――

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