そのアパートは喧騒から逃れるかのように、大通り裏の小さな道沿いにあった。
新一と蘭はこのアパートの主の女に、最上階である三階の、一番奥の一室へと案内された。
「本当にこの部屋でいいのかい?」
「はい、この部屋が一番使い勝手が良いですし。いつも勝手なお願いばかりですみません」
「なーに、新一君に頼まれたんじゃ、断るわけにいかないからねえ」
そう言うと、いかにも快活そうな女は、笑いながら片目をつぶってみせた。
蘭はおもむろに窓辺へと進み、窓の外を望む。眼下には、午後の柔らかな日差しに照らされた提無津川が流れており、その流れは大きく湾曲しながら、遠く米花の街を囲う城壁のはるか向こうまで続いていた。
「何か必要なものがあったら、遠慮しないで言って下さいな。詳しい話は夜にするとして、来たばかりで疲れているだろうし、二人ともゆっくりと休むといいわ」
「ありがとうございます」
言って、新一は礼をする。蘭も新一に倣い、深く頭を下げた。
「二人ともそんなに畏まる必要は無いって!」
と部屋の鍵を新一に渡すと、人懐っこい笑みを浮かべ、アパート主の女は部屋を後にした。
「ねえ、さっきの話しぶりだと、前にもこの部屋を使ったことがあるの?」
「まあな。ここは俺の別荘みたいなものだから」
「え?」
と目を見開く蘭に新一は笑う。
「俺も詳しいことは聞いてないんだけど、あのおかみさんと博士が古くからの知り合いらしいくてさ。そんなこともあって、子供の頃から家出した時とか、この部屋を使わせてもらっていたってわけ」
「子供の時から家出って!?」
「そう」
悪びれる様子も無い新一に、蘭は半ば呆れながらくすりと笑った。
教会を出ると決めた翌日、蘭は夕食後に新一の部屋に呼ばれ、その後の生活について聞かされた。
アパートを借り、働きながら様々な情報を集める。アパートと働き先については、新一の知人に頼んで、準備はすでに済ませてあるという。
その新一の知人というのが、二人をアパートに案内した早苗という女性だった。彼女を知る人は誰もが親愛の意味を込めて、おかみさん、と呼んでいた。
彼女はこのアパートと共に、近くで宿を営んでおり、新一と蘭の働き先というのがこの宿だった。
一通り話し終えると、新一は最後に窓越しに月夜を見つめながら呟いた。
場合によっては自ら事を起こすかもしれない――――
新一の言葉に、蘭は目を見張った。
「でも、新一、もしそうなったら、そのおかみさんたちにも危険が及ぶことになるんじゃない? ここの人たちに危険が及ばないようにって、教会を出ることにしたんだよね?」
「宿の人たちは俺の動きを止めたりはしない。ましてや、俺と行動を共にしようとは考えないだろ?」
「あ!」
蘭はその後の言葉に詰まった。
確かに、新一の危惧するようなことは容易に想像できる。彼らと出会ったのも、彼らが大渡間監獄を襲撃しようという時だった。もし、この先、新一が事を起こそうとすれば、彼らが協力しようとするのは、蘭の目からも明らかだった。
「蘭、これから俺がしようとしていることは、そういうことだ。かなりの危険を伴うことになるかもしれない。しつこいようだが、それでも、俺に付いて来るか?」
「何度聞いても無駄よ。私は新一に付いていくから。前にも言ったでしょ? 私、後悔はしたくないの」
部屋の中は簡素なキッチンが備えられたリビングと、奥に寝室があるだけのこぢんまりとしたもので、リビングには部屋の広さに不釣合いな大きさの本棚と、小さなソファにテーブルだけが無造作に置かれていた。
荷物を手にしたまま蘭は奥の寝室に足を踏み入れる。シングルベッドがどうにか三つ入るほどの広さしかない部屋にはベッドが二つ置かれ、その間に、無愛想なまでに質素な衝立が並べられていた。
「悪いな、蘭。もうちょっと広い部屋なら良かったんだろうけどさ……」
「ううん。無理を言って付いてきたのは私のほうなんだし……」
心底申し訳なさそうな顔を浮かべる新一に、蘭は努めて明るく微笑み返す。新一はなおも表情を変えずにいた。
「しばらくの間、俺はリビングで寝るから、蘭はこの部屋を使ってくれ」
「そんなのダメだよ!」
自分でも驚くほどの語気の強さに蘭は気恥ずかしくなり、思わず新一から視線を外すと、小さく息を吐き出した。
「リビングで寝るって、あのソファで寝るってことでしょう? それじゃあ、いくら寝ても体が休まらないだろうし、それに……」
「それに?」
「うん……、それに、教会でも志保さんと同じ部屋だったし、側に人の気配があった方が安心して眠れると思うから……」
蘭とて年頃の娘が持つ羞恥心が無いわけではない。
確かに新一への配慮もあったが、蘭の言葉は決してその場を取り繕うだけのものではなかった。
小五郎と生活している時からそうだった。いつの頃からか、蘭は人の気配が無いと深く眠れなくなっていた。小五郎が仕事で夜に家を留守にする時は、朝までほとんど眠れなかったということも珍しくなかったのだ。
「そういうことなら、俺もこの部屋で寝ることにするけど、やっぱり別々の方が良いと思ったら、遠慮せずに言ってくれよな?」
「うん、ありがとう」
蘭は頷いて、ほっとしたように微笑んだ。
蘭は奥側のベッドの枕元に荷物を置いた。
二つのベッドの間にある窓の向こうには、米花の街並みが広がっていた。
「案外、いい眺めだろ?」
「うん」
「窓を開けると、もっと遠くまで見えるんだ」
と、新一は慣れた手つきで軋む窓を開けた。
「さすがに、あの丘ほどの絶景とはいかないけどな」
言って、新一は得意げに笑った。
提無津川を伝ってきた冷涼な風が頬に触れ、蘭は大きく深呼吸した。
「教会ってあの辺だよね?」
と、ややあってから蘭は対岸の一角を指差した。
「ああ」
「似たような建物ばかりで、どれが教会かわからないね」
「だな。もしかして、蘭、もう教会に戻りたくなったとか?」
「ま、まさか……」
ムキになって否定する蘭に、新一は悪戯っぽく笑う。
「こうしてここから街並みを眺めると、不思議と色々なことを思うんだよなあ……」
独りごちるように言って、新一は苦笑した。
蘭は改めて街並みを見渡した。
提無津川を中心に、隙間無く建てられた建物の数々。大通りには途切れることなく行き交う人々。どこからとも無く聞こえてくる声、音――――
不意に蘭の視線が止まる。視線の先にはこの国一番の高さを誇る尖塔があった。
「ここからだと、大聖堂の向こう側なんだな、蘭の家は」
蘭は小さく頷く。
「あれから、お父さんとは?」
「ううん」
「そっか……」
そのまま、しばしの沈黙が続いた。
「夕方までまだ時間もあることだし、これからもう一度行ってみるか?」
「え?」
「ほらさ、このままだと俺も寝覚めが悪いからさ」
新一から教会を出ると聞かされた翌日から、蘭は教会の仕事や荷造りの合間を縫って、毎日家に帰って小五郎の帰りを待っていたのだが、とうとうこの日まで小五郎と会うことは叶わなかった。
そもそも、蘭が教会で生活をするようになってからは、小五郎はほとんど家に戻っていないようだった。蘭は少なくとも週に二度は様子を見に家に戻り、日々の様子をしたためた手紙を置いていたのだが、その手紙に返事があるのは半月に一度あるかどうかで、顔を見るとなると、片手で数えるほどしか無かった。
「アパートや宿の近くの案内もしておきたいし、どうだ、蘭?」
「ありがとう、新一」
蘭はただ深く頭を下げた。
米花の街は提無津川を挟んだ北と南で、その様子を大きく違えていた。
提無津川の南側は、この国の主だった機関を中心に街が作られており、王族貴族の宮殿や大聖堂に各寺院、議事場や裁判所、そして、国立歌劇場などと、この国の政治と文化を色濃く表していた。
一方の北側は、軍関連の施設と国立大学を中心に作られた比較的新しい街で、他国や他の都市からの移住者が多いこともあり、この国随一の商業地域となっていた。
宿と飲食店が立ち並ぶ提無津川沿いの大通りは人々の往来が多く、内外問わず、ありとあらゆるものが集まる、特に賑やかな地域だった。
早めの昼食を済ませ、二人はアパートを後にした。
新一と蘭が働く早苗の宿も、この賑やかな通り沿いにあった。宿の場所を確認して、二人はそのまま大通りを進んだ。
間もなくして、大きな交差点に辿り着く。その大通りは米花の街の南北を結ぶメインストリートで、北に進むと国立大学が、南に提無津川を渡った先には、この国のシンボルの噴水がある広場へと繋がっていた。
いつもと同じように噴水の周りには人々が集まり、近くのカフェの店先では、至る所で演説が繰り広げられている。ただ、以前と違うのは、声を大きくする者たちの中に女の姿が増えていた。
広場を抜け、蘭がかつて働いていた雑貨店を通り過ぎる頃には、道行く人々の姿もまばらとなった。二人の間の言葉も自然と少なくなっていった。
二人の足が古ぼけたアパートの前で止まった。
「せめて、手紙の返事だけでもあるといいんだけどな」
遠慮がちに言った新一の言葉に、蘭は小さく頷いて、階段の先を見上げた。
大きく深呼吸をして、蘭が階段の一段目に足を掛けたその時だった。
「お父さん!」
二人が見上げた先には、部屋を今まさに出ようとする小五郎の姿があった。
「蘭!?」
小五郎は二人を部屋に招き入れソファに座らせると、蘭に二通の手紙を差し出した。
「お父さん?」
「蘭、悪いな。時間があまりなくて、今もすぐに出発しなくちゃならないんだ。だから用件だけを掻い摘んで話すからな。事情はわかった。前にも言ったように、俺はお前のことを信じている。だから、蘭の好きにすればいい。手紙にもその旨を書いてあるから。もう一通は英理からのものだ。つい、さっき届いてな。すぐに渡せて良かったよ」
言って小五郎は、安堵したように穏やかに笑った。
そのまま窓際の安楽椅子に腰を下ろし、窓の外を見つめた。
「最近はこんな貧乏所帯ばかりの地域でも、空き巣やらひったくりが増えていてな……」
「お父さんは大丈夫なの? ほとんど家にも帰ってきていないようだし、何か危険なことに巻き込まれてたりしないよね? 今までこんなことは一度も無かったし……」
「蘭は何も心配しなくてもいい。確かに、今度の仕事は少し面倒だが、決して危険を伴うようなものじゃないから」
言って、心配そうに見つめてくる蘭に、小五郎は困ったように微笑み返した。
「そういうわけだから、蘭のことを頼むな。ただし、蘭に変な手出しをするようなことがあったら、その時は……」
「はい、覚悟は出来ています」
間髪入れずそう答えた新一に、小五郎は思わず不快そうに眉をひそめる。だが、すぐにその表情を真剣なものへと変えた。
「蘭は俺の、俺たちの大事な一人娘なんだ。こういうご時世だし、本当なら俺が守るべきなんだが、見ての通りの有様だ。蘭にもしものことがあったら、母親に合わせる顔がない。勝手を言うようだが、その……」
「わかっています。こうして蘭を巻き込んでしまった以上、お二人を悲しませることの無いよう、責任は最後まで担います」
新一の言葉は力強く、その目には一転の曇りも無かった。
小五郎は椅子から立ち上がると、深々と頭を下げた。
夕映えの空に月が浮かぶ頃、新一と蘭は宿に戻った。
この日は宿の仕事の様子を見学するだけの予定だったのだが、平日にしては珍しく満室で、しかも、食事だけの客も多く、結局、二人も見よう見まねで手伝い、遅い夕食を終えてアパートの部屋に戻ったのは、夜半も近くなってからのことだった。
「疲れたんじゃないか、蘭?」
「ううん、平気よ。それより、何か飲み物でも入れる?」
「もう遅いからいいよ。明日から慣れない生活が始まるんだし、今夜はもう休め。蘭が着替え終わるまで、俺はここにいるから」
と、新一は本棚から一冊の本を取り出した。
「ありがとう、新一」
蘭は早々に着替えを済ませて、枕元の燭台の下、小五郎から手渡された手紙を開いた。
小五郎の手紙には、自らの不甲斐なさを詫びる言葉の数々と共に、ただ自分の信じる道を進んで欲しいと、英理の手紙には、王城でも多少の混乱はあるが、英理の周辺は平穏だから何ら心配は要らないという内容とともに、いつだって英理も小五郎も蘭のことを信じて、遠くからでも見守っていると書かれていた。
窓辺に立ち、蘭は大聖堂と見えはしないがその先の王城を望んだ。月明かりに照らされた米花の街はひどく寂しげで、提無津川の水面で揺らめく月は、この街の、この国の儚さを表しているかのよう思えた。
月光の下、蘭の頬を伝う一筋の涙が切なく輝く。
「ありがとう、お父さん、お母さん。それと、ゴメンね……」