16. 小休止

「こちらだったんですね」
「新出先生ですか……。私に何か用事でも?」
「いえ、そういうことではないのですが……。あの、隣に座っても宜しいですか?」
「え、ええ……」

新一と蘭が教会を去って以来、志保は一人窓の外を望んだり、空を見上げたりと、物思いに耽ることが多くなったように新出は感じていた。今もこうして中庭で一人、青空を流れ行く雲をただ見つめているようだった。

「あの、一つ聞いても宜しいですか?」
「ええ……」
「志保さんはどうしてあの二人に付いて行かなかったんですか?」
「……二人の邪魔をするような、大人気ない真似はしたくなかった……、では答えにならないですかね?」
言って、志保は自嘲するように微笑う。おそらく、この答えは彼女の本心ではないのだろう。どこか寂しげな志保の表情に、新出は、いえ、とだけ曖昧に答えを返した。

志保から教会に残ると聞かされた時、新出は少なからず疑問に感じた。
多くは語らないにしろ、新一と志保双方から彼らは主従関係にあると聞かされていたし、多少の違和感はあったものの、その会話や応対の端々に主従として信頼しあっていることは感じていた。

さらに不思議だったのは京極だった。彼は新一の護衛であるはずなのに、新一の側にいることはあまりなく、それどころか、教会でもその姿を見ることは稀だった。

貴族の世界に詳しくないとはいえ、彼らの主従関係が絶対的なものであることは新出とて知っている。
本人が語らずとも、立ち居振る舞い、言動、知識、いずれをとっても、新一は正統な貴族の嫡男であるに違いないのに、新一と志保、そして京極の関係は、いつも新出の知る常識の範疇を超えていた。
それが何を意味しているのか、新出は思いを巡らせずにはいられなかった。

いつも穏やかな新出が珍しく表情を曇らせていた。新出はその優しさから、思いとは裏腹に詮索できずにいるのだろう。志保は大きく息を吐き出し、言葉を続けた。

「……そうね。ここに残ったほうが有意義だと思ったから。ここでなら私も少しは役に立ちそうだし、私も色々と学ぶことが出来るでしょう? それに……」
「それに?」
「それに……、新一様を守るため、とでも言えばいいのかしら。これでも一応、私は新一様の侍女ですから」
「それはどういう意味ですか?」
新出の問い掛けに、志保はただ苦笑する。
二人の間に、しばしの沈黙が続いた。

「……きっと答えては貰えないのでしょうが、新一君は一体……」
「それ以上はどうか聞かないで下さい。それが新出先生、あなたのためでもありますから……」
目を見張り言葉に詰まった新出に、志保は穏やかな中にもどこか寂しげに微笑みを返した。

再び、二人の間に沈黙が下りた。
「志保さん、もし宜しければ、午後の往診について来ませんか? ここのところ教会から出ていないようですし、多少の気分転換になると思いますが?」

新出のさりげない優しさが嬉しかった。
志保は苦笑して、頭を下げた。
「お願いします」

「今日もまた谷内さんに言われたよ。『新一はなぜ教会に来ないんだ』って」

蝋燭の火が灯るだけの部屋で、蘭は衝立越しの新一に問い掛けた。新一からの返事は無い。その表情は見えないものの、新一が苦笑していることは蘭には容易に想像できる。新一はいつも同じ反応だった。

新しい生活に慣れるまでに時間は掛からなかった。
働き先である宿の従業員たちとも、すぐに打ち解けることが出来た。

宿とアパートの主である早苗は商売人らしく快活で、いつも笑顔を絶やさない大らかな人柄だった。彼女は若くして父親から宿とアパートを譲り受け、調理人だった夫と二人、商売を続けてきた。だが、その夫とも三年前に死に別れたという。今は夫と同じ道に進んだ一人息子の大樹とと共に、宿とアパートを守っていた。

息子の大樹も早苗に似ていつも明るく、歳は三十歳近いというのにどこか少年っぽさが残る人懐っこい性格だった。最近、近所のカフェの娘と婚約したとかで、僅かな時間でも毎日のように彼女の元に出かけていた。

従業員は先代から働いている松男という初老の男と、まだ十四歳という葉子という娘がいた。
松男は寡黙ながらもよく気配りの行き届いた仕事をする人で、早苗は特に信頼を置いていた。
一方の葉子は、二年前に新一が連れてきた娘だという。彼女はおとなしく表情に乏しいところがあるのだが、仕事は丁寧で素直な娘だった。ただ、なぜか歳の近い蘭とは、あまり言葉を交わそうとはしなかった。

新一と蘭は同じアパートで暮らすようになったとはいえ、二人で過ごす時間は限られていた。
朝、アパートで軽めの朝食を済ませると、二人で早苗の宿へと向かう。蘭はそのまま午前中、宿の仕事をこなし、その間、新一は早苗が所有する数軒のアパートの管理を任されていた。
午後は夕方まで自由に過ごすことが出来たが、新一と蘭が二人で過ごすことはほとんど無かった。新一は情報を得るためと行き先も告げずに出かけ、蘭は一人で教会や自宅に通っていた。
夕方以降は二人共に宿の仕事を手伝い、宿で他の従業員たちと共に遅い夕食を取った。
多忙の中で新一と蘭がとゆっくり話ができるのは、夕食を済ませ、宿を出てから眠りに付くまでの僅かな時間だけだった。

「ねえ、新一、あまり一人で無理しないで欲しいの。何ていうか……、新一が一人で何でも抱え込んでしまったら、私が付いてきた意味が無いでしょ?」

しばしの沈黙が続いた。

「蘭がいてくれて、本当に助かってる……」
「……新一?」

新一からのそれ以上の答えは無い。代わりに、大きく息を吐き出す音だけが聞こえた。
鼓動を落ち着かせるように、蘭は胸に手を当て、静かに溜め息を零す。

「おやすみ。新一……」

枕元の蝋燭の火を消し、ベッドに潜り込んだ。
最初は緊張でなかなか眠れなかった蘭も、今では安心して眠れるように変わった。
けれど、この夜は夜明け近くまで眠りに付くことが出来なかった。

新一と蘭が教会を出てから、一ヶ月が過ぎようという頃だった。
「あの、おかみさん。蘭と二人、明日の午後から休ませてもらいたいんですが」
「明日は暇そうだし、別に構わないよ。二人には良く働いてもらっているし、午後からと言わず、明日は朝から休むといい」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えさせて頂きます」

蘭には寝耳に水な話だった。
深々と頭を下げる新一を、きょとんと眺めていた。

「というわけだ、蘭」
新一の言葉で蘭はようやく我に返る。

「急にお休みって、新一?」
「蘭に付き合ってもらいたい場所があってさ」
「え?」
新一は笑うだけで、それ以上のことはこの日、何も話さなかった。

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