17. 新たなる舞台

翌日。
午後になって新一は、蘭を郊外の城壁まで連れ出した。
城壁の外では、一台の馬車が二人を待っていた。

「え、京極さん?」
馬車の脇に立っていたのは京極だった。

「京極さんが御者、なの? ということは、これに乗るの?」
「そう。まあ、そんなに遠出するわけでないし、心配要らないって」
「あ、でも……」
穏やかに微笑む新一に、蘭はそれ以上の言葉を失った。

馬車は城壁に沿うように、貴族の屋敷が並ぶ地域を進んだ。
小さな車窓の向こうに広がる光景は、蘭には見慣れないものばかりだった。

しばらくして、馬車が一邸の屋敷の前で止まった。

「私に付き合ってもらいたかった場所って、このお屋敷なの?」
「一箇所目はね」
と、新一は誤魔化すように微笑み返し、足早に屋敷へと向かうと、蘭も後に続いた。

屋敷の入り口には軍服を纏った一人の女性が深々と頭を下げ、新一と蘭を出迎えた。

「お待ち申し上げておりました、新一様。お元気そうで何よりです」
「佐藤さんも元気そうですね」
「はい、お陰さまで。そちらが蘭さんですね? お話は伺っております。わたくし、佐藤美和子と申します」
「あの、毛利蘭です。はじめまして……」
蘭は佐藤に釣られるように深く頭を下げた。
蘭よりは十歳は年上だろうか? 凛とした立ち居振る舞いでありながら、柔らかな笑みを浮かべる女性だった。

「挨拶はほどほどにして。佐藤さん、準備は出来てる?」
「はい。では、早速、案内致します」

新一と蘭はまっすぐ応接間へと案内された。
シンプルで品の良いテーブルの上には、紅茶のセットが用意されていた。

「ねえ、新一。そろそろ本当の目的を教えて欲しいんだけど?」
「今すぐわかるから」
とだけ言って、新一は紅茶に手を伸ばす。
そのときを待つしかないのかと、蘭も紅茶を口に含む。しかし、不安を拭えるはずは無く、その味と香りを楽しむ余裕は無かった。

ややあって、佐藤が一着の淡いブルーのドレスを手に応接間へと戻ってきた。

「新一様からご連絡を頂いて、慌ててわたくしの若い頃のドレスを探したんですが、こちらで宜しかったでしょうか?」
「やっぱり、佐藤さんにお願いして正解だったな。それなら派手過ぎずに品も良いし、蘭にも似合いそうだし」
「え!?」
「実はさ、今日、蘭にお願いしたいのは、今夜の舞踏会に付き合って欲しいってことなんだ」
「ええ!?」
あまりに意外な新一の申し出に、蘭はしばし言葉を失った。

「え、でも、私、舞踏会なんか出たこともないし、踊ったりしたこともないよ? それ以前に、こんなに立派なドレスだって着たこともないし……。舞踏会だなんて絶対無理だよ」
「大丈夫。どうせ今夜のは仮面舞踏会。誰かに顔を見られるでもなければ、人前で踊る必要もない。蘭はただ俺の側を離れずにいてくれさえすればいいから」
「で、でも……」
「心配は要らないって、蘭。それより、いい機会だから、貴族の世界を少し覗いてみるといい。前に知る必要は無いと言ったけど、虚構に満ちた舞台を見るのも悪くないと思う。蘭の世界観がきっと変わるはずだから」

この日初めて新一の表情が真剣なものへと変わった。
蘭は新一の言葉の裏側を思い、しばしの沈黙の後、小さく頷いた。

「うん……」

屋敷の奥へと案内され、蘭は生まれて初めて舞踏会用のドレスを身に纏った。

「初めてとは思えないほどきちんと着こなしているし、この姿でしたら、舞踏会の場で他の人と比べても、決して見劣りはしないと思います」
言って、どこか嬉しそうに微笑む佐藤に、蘭は曖昧な笑みを返す。あまり鮮明とは言えぬ鏡に映った自らのドレス姿は、まるで別人のようにさえ思え、何とも不思議な気分だった。

その後、蘭は佐藤から一通り礼儀作法や立ち居振る舞いを教わる。急ごしらえであったが、蘭は短時間で見事に誰の目にも貴族の娘と映るまでに変わった。

「想像以上だよ、蘭」
感嘆するように言った新一に、蘭は戸惑うままに微笑みを返した。

米花の街が黄昏に染まろうとしていた。

一通りの準備を終え、応接間を新一と蘭が出ようというとき、佐藤が慌てながらも恭しく言葉を発した。
「新一様、どうか、舞踏会場まで高木君だけでも付き添わせてはもらえないでしょうか?」
佐藤の目は真剣そのものだった。

新一は大きく息を吐き出す。
「京極だけでもいいかなと思ってたんだけど、その申し出を受けないと、下手をすれば、この屋敷から出してもらえそうにないからなぁ……。いいよ。ただし、少尉とすぐにわかるような制服は無しってことで」
「承知致しました。では、すぐに用意を致しますので、しばしこの場でお待ち頂けますよう、お願い致します」
と、安堵の表情で言い残し、佐藤は足早に応接間を後にした。

応接間には再び新一と蘭、二人だけが残された。
「ねえ、新一。佐藤さんって少尉なの? もしかして、京極さんみたいに近衛部隊の人とか……」
「いや、彼女と今話に出た高木は工藤家付きの護衛兵で、彼女の位は中尉。見えないだろ? あの若さで、しかも女性だしな。けど、実力は確かだから」
「あんなに綺麗な人が軍人さんだというだけでも驚きなのに、中尉だなんて……」

蘭は心底驚いていた。
佐藤もそうだが、志保といい、京極といい、新一の部下には若くて優秀な人材が多い。その事実を考えると、新一に対して畏怖の念すら覚え始めていた。

全ての準備を済ませ、新一と蘭は佐藤に見送られ屋敷を後にした。
馬車には二人の道中の護衛にと、高木という若い男も一緒に乗っていた。少尉だというが、蘭には軍人というより、とても人の良さそうな青年にしか見えなった。

「高木さんは、佐藤さんと舞踏会とか行ったことは無いんですか?」
新一の問い掛けは、思いも寄らぬものだったのだろう。高木は明らかに動揺し、その顔色は見る見るうちに赤く変わっていった。
「いえ、僕と佐藤中尉が一緒になんて、とんでもありません。僕はあくまで佐藤中尉の部下でありますし、僕なんかが、その……」

高木が佐藤に恋心を抱いているのは、蘭の目にも明らかだった。
少年のように恥らう高木の姿を微笑ましく思い、どこか羨ましくも感じた。

「部下だから、か……」
新一はそれだけ言うと、車窓の外へと視線を移した。
蘭も新一の視線の後を追う。
かつて園子と何度か訪れた湖の近くだろうか、辺り一面に夏の終わりを告げる花々が咲き乱れる懐かしい光景が広がっていた。

米花には大きく分けて三つの貴族の屋敷が立ち並ぶ場所がある。
一つは城壁内の、僧侶や城下の各施設で働く官僚や、鈴木家のような代々王国に寄与してきた貴族たちの屋敷群。
一つは城壁外、米花の東側に連なる軍関係や一代貴族などが集まる屋敷群で、佐藤の屋敷はここに位置していた。
もう一つは、米花の南西の城壁外に広がる、宮廷貴族がそのほとんどを占める屋敷群で、今、自分たちが向かっているのはこの屋敷群であるらしいことは、車窓の光景から蘭にも容易に想像できた。

次第に底知れぬ不安が蘭の胸を満たし始めた。
「ねえ、新一?」

「最初から諦めたら、叶うものも叶わなくなるよ、高木さん」
蘭の問い掛けが聞こえなかったのか、新一が独りごちるように言う。

「あの、新一様?」
「上司と部下だからとか、貴族だからそうでないからとか、近いうちに関係なくなるさ、必ず……」

新一の言葉に困惑する蘭と高木は思わず、お互いの目を見合わせた。
新一はなおも車窓の向こう側を見つめていた。

「だから、蘭、そう緊張するな」
「え?」

蘭の方に向き直った新一の表情に、苦笑とも微笑ともわからぬ笑みが浮かぶ。
「どうせ彼らが暢気に仮面舞踏会に興じていられるのも、今のうちなんだから……」

間もなくして、車窓の景色が止まった。

「一時間ほどで戻るから、目立たぬよう、どこかで待機していてくれ」
とだけ高木に言い残し、新一は素早く馬車から降りる。
新一に促され、戸惑いを隠せぬままに差し出された手に従い、蘭も続いて馬車を降りた。

何台もの連なる馬車の向こうに、華やかでありながら荘厳な、今までに見たこともないほどの大きな城が蘭の目に飛び込んできた。
そこは蘭にとって異世界への入り口だった。

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