馬車の中で一人、高木は盛大に溜め息を落とした。
車窓の向こうに広がる人々の群れの中に、若き主の姿はもう無い。
先ほどの主の言葉が脳裏に蘇る。
『上司と部下だからとか、貴族だからそうでないからとか、近いうちに関係なくなるさ、必ず……』
高木が新一の直属の臣下として配属されたのは、新一のデビュタントに合わせてのものだった。
それから二年余りという短い期間ではあったが、主君としての新一は、命を賭すことも厭わないと思わせるだけの人物と、高木は信じて疑うことは無かった。時に常識の外での言動に驚かされることも多いが、自分よりずっと若いというのに、その博識ぶり、武人としての有能さ、そして何よりも、内に秘めたる信念の強さに深く感嘆し、信頼もしていた。
それだけに、先ほどの新一の言葉には自暴自棄めいたものがあり、自分を突き放すかのようにさえ感じられ、高木はかつて覚えのない不安を抱き、困惑せずにはいられなかった。
(新一様は一体、何を望んでおられるのか……)
身長の二倍以上の高さはあろうかという扉の向こうに広がっていたのは、話に聞いたままの世界だった。
否、それ以上の世界だった。
「新一、このお屋敷は?」
「ああ、議会の長老派貴族のものだよ」
「へぇ……」
屋敷の外はそろそろ暗闇に侵されている頃合のはずだが、あまたの燭台の光に照らされた屋敷内は、陽光の下と見紛うほどの明るさだった。
天井には色鮮やかな装飾画が描かれ、荘厳なシャンデリアが輝いていた。舞踏会場の床には磨き上げられた大理石が、廊下には真紅のベルベットが敷き詰められ、壁には数多くの絵画や彫刻などが所狭しと並べられていた。
蘭は思わず感嘆のため息を漏らした。
「きっと、王城はもっと絢爛豪華なんでしょうね?」
「……こことそう変わらないさ」
新一が答えるまでにしばしの間があった。
「ごめんなさい。私、少し浮かれていたみたい……」
「いや、それでいいんだよ、蘭」
「え?」
「舞踏会は日常からかけ離れた世界。みんな、一夜限りの享楽を求めて集まっているのだから……」
新一の口元が緩む。仮面の裏側では、苦笑を浮かべているのだろう。
「俺の方こそ悪かったな。蘭に余計な気を使わせちまったみたいで」
「あ、ううん」
「とりあえず、屋敷内を一回りしてみるか?」
「うん」
差し出された手の温もりが蘭の不安を拭い去っていく。
なぜだかこの時、この屋敷を出るまでこの手を決して離してはいけない、と蘭は強く思った。
広大な舞踏会場は華やかな衣装を纏った人々で埋め尽くされていた。
仮面舞踏会ということで、仮装している者も多い。
歴史上の英雄に、動物や伝説の怪物の姿――――
マズルカの調べに乗せて軽快に踊る男女の姿はまるで、絵本の中から飛び出してきたかのような光景だった。
舞踏会場をゆっくりと一周りして、新一と蘭は一旦、手入れが行き届いた庭園を望む回廊へと逃れた。
そこには、舞踏会場とはまた違った光景が広がっていた。
回廊に等間隔に置かれた彫刻の影で互いの身体を密着させていたり、手に手を取り合って庭園奥の四阿にその身を隠す男女の姿 ――――
蘭はそんな光景を不可解な思いで見つめていた。
不意に新一が握る手に力が込められる。
「仮面舞踏会は過ちが赦される場だから……」
仮面越しのその目には、わずかに哀しみの色が帯びているように、蘭には感じられた。
「お互い身分を明かす必要が無いし、相手を気遣う必要もない。秘密を持つ、ただその事実を楽しむためだけに、一夜限りの情事を求める者も多い。それでもまだ、仮面舞踏会の方がマシなのかもしれないが……」
「新一?」
「仮面を外したら外したで、家を、身分を守るため、そして、より高みを目指すために、互いに腹を探り合い、必要とあらば相手を陥れさえする、そんな人間の醜さばかりが見え隠れする場となるのだから……」
そこまで言うと、新一は大きく息を吐き出した。
言葉を探しあぐねているのだろう、蘭は不安そうな面持ちで見つめ返す。
新一自身、なぜ蘭を舞踏会場に連れ出したのか、明確な理由を見つけられずにいた。
単に貴族の象徴でもある舞踏会の華やかな世界に触れて、見聞を広げてもらいたかったのかもしれない。
それ以上に、魑魅魍魎が跋扈する世界の真っ只中に置かれる自身の苦悩を、無意識のうちに蘭にも感じてもらいたかったのかもしれない。
いずれにしても、否、別の理由があったとしても、なかったとしても、今夜は蘭とこの場に来なければならないように、新一は強い使命感のようなものを感じていた。
しばしの喧騒の後、舞踏会場から流れてくるメロディーが変わった。
「メヌエット、か……」
新一の口元が緩む。
「せっかくの舞踏会なんだし、少し踊ってみるか?」
「え? そんな、私、踊ったことなんて一度もないし、急に無理だよ」
「大丈夫、簡単だって。蘭は力を抜いて、ただ俺に身を任せればいいから」
「そんなこと言っても……」
「実際にやってみればわかるって。ほら!」
最初こそは緊張のあまり、足がもつれそうになったこともあったが、新一のリードに身を委ねるほどに手足の動きもスムーズとなり、曲が終わる頃には、メヌエットの調べに包まれるかのような一体感を蘭は感じていた。
本来であれば、一曲ごとにパートナーを替えるのが仮面舞踏会での習わしなのだが、二人は構わず、次の曲もそのまま踊り続けた。
二曲目も終わり、新一と蘭も周りに倣い、互いに会釈する。
「ほらな?」
と得意げに言う新一に、
「うん」
と、蘭は戸惑いつつも、笑顔で答えた。
「さてと、近頃の舞踏会の様子もまあわかったことだし、そろそろ帰るとするか!」
「失礼ですが」
舞踏会場を抜け出そうというその時、突然、女に呼び止められた。
「このような場で、このような質問をするのは不躾なことと承知しておりますが、私のこの声に聞き覚えは無いでしょうか? と申しますのも、先ほどのお二人のステップに覚えがあり、もしや、以前にわたくしと踊って頂いたことがあったのでは、と思ったものですから」
仮面に覆われているため女の表情まではわからないが、声の感じからすると、自分たちと同じくらいか、少し年上だろうか? 隅々まで細やかな刺繍が施された女の衣装は、華やかに彩られた人々の中でも、より豪華なもののように蘭の目に映った。女の連れと思われる、すぐ後に控える長身の男の衣装もまた、派手さはないが高価な生地で作られているように見えた。
「いえ。お互いに仮面越しなので確かなことは言えませんが、私には貴方のような声の持ち主と踊った覚えはありませんし、おそらく、人違いでしょう」
新一は涼しい声で答える。
「それ以前に、今宵は仮面舞踏会、お互い身分を明かすことはタブーだったはずですが?」
「そうでしたわね。どうやらわたくしの勘違いだったようですし、大変な失礼を致しました」
女は小首を傾げ軽く会釈をすると、連れの男と共に舞踏会の中心へと戻っていった。
ただ、口調こそは丁寧なものであったが、最後、仮面の奥に見えた女の目は、不信に満ちたものだった。
二人は無言のまま屋敷から抜け出し、馬車へと戻った。
夜道での警護がしやすいようにと高木は御者を務める京極の隣へと移ったため、車内は新一と蘭の二人きりだった。
お互いに仮面を外し、ホッとしたような笑みを交わす。
僅かな沈黙の後、蘭が口を開いた。
「ねぇ新一、さっきの女の人だけど……」
「おそらく、本当に勘違いだろう。俺は舞踏会自体、ほとんど出たことが無いし」
「そうなの?」
「ああ。仮面を着けていようがいまいが、あの浮き足立った雰囲気が昔から苦手なんだ。でも……」
「でも?」
「今夜は楽しかった。たまにはこんな夜も悪くないと、蘭と踊りながら思ったんだ。ありがとうな、蘭」
「あ、うん。私こそ、一生に一度の経験をさせてもらったから」
「一生に一度、か……」
新一は車窓の外を望み、微笑とも苦笑ともつかぬ笑みを浮かべた。