ギィーギィーとそよ吹く風にも軋むドアは、来訪者を締め出すバタン!という音を最後に、その喘ぎを止めた。
新一はドアを背にし、小さく息を吐き出す。今日の集金はこのアパートで最後だった。
申し訳程度に付けられた窓から外を望む。くすむガラスの向こうには、抜けるような青空が広がっていた。
アパートの裏手には、広さはそれほどではないものの緑成す公園があり、昼下がりの穏やかな時間を過ごす人々の姿が目に入った。
建物も道も石で造られた米花の街には、この公園のように、自然から切り離されたかのような緑の公園が随所にある。王都を囲む城壁の外に出ることなく、その生涯を終える者も少なくない米花の人々にとって、この小さな緑は貴重な憩いの場となっていた。
新一は公園に足を踏み入れ、片隅のベンチに一人座った。
どこまでも続く青空に挑むかのように、木々は朱や浅黄色に染まりつつあった。
第一回の国民議会は、緑が深まりゆく頃に開かれた。
それから三カ月余り月日は流れ、この週末のそれが最後の議会となる。総括として、全国民に向けた議会宣言がなされる予定だった。
時代の流れは諸国の例を見るまでもなく、国王による統治から、市民の手による社会へと向かっている。その大きな流れを止められる者など、いるはずもない。だが、抗うものは必ず現れる。それも相当数に及ぶだろう。
彼らが最後の議会までに、何らかの動きを見せるに違いない ―――― 新一には、そんな確信に近い思いがあった。
組み合わせた両手に視線を移す。
不意に母の言葉が蘇った。
『新ちゃんの手には、剣なんて似合わないのに……』
十五歳の誕生日を迎える直前のことだった。
その時の母の表情は、昨日のことのように覚えている。
京極が新一の下に配属されるずっと前のことで、当時の護衛の者との剣の手合わせを終え、自室に戻ろうと回廊を歩いていた時に、すれ違いざまに母が呟いた言葉だった。
無意識のうちに発せられた言葉だったのだろう。はっと我に返り、困惑の色を隠せないままに浮かべた笑みを、忘れられるはずがなかった。哀しみというより、諦めの色が見え隠れする母のその表情は、後にも先にも見せたことが無かったのだから。
その後、間もなくして、新一はあての無い旅に出る。
『多くの場所を訪れ、そこで生きる人々に接し、ありとあらゆるものを目にし、感じてくるように!』
という父の命によって。
あれから二年余り、軍人には遠く及ばないものの、時にはその剣を振るい、人を殺めることもあった。殺めるまではいかなくとも、怪我を負わせたことならば、その数は決して少なくはあるまい。時には、相手の体に触れることなく殺傷する、罪の意識をも麻痺させる銃をも使って――――
幼い頃からの鍛錬が功を奏しているのだろう。剣の腕も銃の腕も人並み以上だとは自負している。決して、過信ではないはずだ。
新一は右の掌を空にかざした。
すぐ近くから、子供たちの無邪気な笑い声が聞こえてくる。
旅立ちの前夜、父は新一を呼び出し、朧げな灯りに淡く色付いた街並みを眼下に望みながら、静かに言った。
『私の息子として生まれた以上、お前が望むままに生きることは、確かに難しいだろう。だが、諦める必要は無い。自分を信じ続けなさい』
いずれまた、そう遠くない未来に、この手はまた血で汚れるのだろう。
自分を守るために、そして、自分を信じる人を守るために。そう自分に言い聞かせて――――
不意に木々がざわめいた。
新一はその手をゆっくりと降ろし、再び、両の手を組み合わせる。
視線は真っ直ぐ正面を見据えていた。
「お前がわざわざここまで来たということは、何か動きでもあったのか?」
「はい」
背後の声は場違いなまでに冷淡だった。
「王城内で不穏な動きが見られるようです」
「不穏な、とは?」
「はい。詳しいことはまだ調査中ですが、国王陛下周辺からは遠く離れたところで、ざわつきが見られるようでして……」
「ざわつき程度であれば、今すぐに国王夫妻や、その周囲に影響が及ぶ心配は、まず無いだろうな」
「はい。その可能性はかなり低いかと存じます。ただし、そのことがほころびとなり、事態が大きく変わる……、そういった可能性となれば」
「高い、よな……」
新一は小さく溜め息を零した。
「ところで、例の男たちについては、その後、何かわかったか?」
「その件につきましては、大渡間に現れたという小太りの男の方は、石川という名で、金でどんなことでも引き受ける男らしい、というところまで分かりました。もう一方の長身痩躯の男につきましては、申し訳ありません。名は藤原と称しているのですが、その出自までは不明でして……」
「そうか……」
視線が交わることの無いまま、新一は言葉を続けた。
「騙されたようなものだよな?」
「は?」
「お前の本来の主は、俺の下に就くことで退屈しない日々が送れるはずだ、と言って、俺にお前を預けた。だが実情は、お前の本来の務めからは大きく離れ、間者の真似事のようなことまでさせられている」
「あの……、新一様?……」
新一は振り返り、彼の忠実な臣下を見つめた。
いつも表情に乏しい臣下が、珍しく困惑の表情を浮かべていた。
「俺はお前に対して、古くからの臣下と変わらぬ信を置いている。お前に甘え続けることになるが、もう少しだけ、京極、俺のワガママに付き合ってくれるか?」
京極の若い主はいつもそうだ。
彼が命令を下す時、いつもどこかその表情に、哀しげな色を微かに窺わせる。
「私の今の主は、新一様、貴方です。主のご用命とあらば、何なりと!」
新一の口角が僅かに上がった。
「藤原とかいう男については、とりあえず、保留でいい。その代わり、王城内外の監視を今より強化してくれ! 人手が必要であれば、高木にその旨を伝えるといい。彼なら間違いのない人員を用意できるから。最後の議会まで日もない。より慎重に!」
「かしこまりました!」
深々と一礼すると、京極は素早く踵を返し、足早に公園を後にした。
いつの間にか、秋陽は西の空に傾き、朧雲が広がっていた。
公園内には親子連れに変わり、若い男女の姿が増えていた。
彼らの中に、否、この街の、この国の屋敷や城と呼ばれるところに住む以外の同じ年ごろの者たちの中に、自分と同じように剣や銃を持ち、人を傷付けたことのある者など、どれほどいるというのだろうか?
それどころか、蘭のように、自らの身を守る術を持つ者ですらも、その数は限られるはずだ。
蘭の力は飾りとし、決して使われることの無いよう、どうにか彼らと同じ大多数の側に置いておきたい。
そのために自分が出来ることは何か?
新一はもう一度、己の手を見つめ、強く握り込む。
今さら、迷ったりはしない。
大事な人の笑顔を守るために、ただ、そのために、自分を信じて――――