20. 冷たい雨(後編)

蘭は一人、寝室の窓辺に座り、月影が揺れる提無津川を眼下に望みながら、昼間の親友の言葉を思い出していた。

「あのね、蘭、実は最近……、最近ね、お父様がこの国をいつでも出られるように準備しているみたいなの。仕事の方も縮小させているみたいで……」
「それって、園子たちの身に危険が迫っているってこと? 何か具体的な出来事でも?」
「わからない。お父様はその辺りのことを、私たち家族には何も話してくれないから……。でもね、先月くらいから、この屋敷の使用人たちにも少しずつ暇を出して人を減らしていっているし、私たち家族に対しても、大切なものは一つに纏めておくようにって。せっかく、国民議会も始まって、この国も良い方向に向かっているはずなのに、どうしてこんなことになっちゃうわけ?」
「それは……」

蘭は言葉を失ってしまう。蘭にもこの国で今、何が起き、これから何が起ころうとしているのか、想像も出来ないのだ。
ただ、いつも表情豊かな親友の、悲しみとも怖れとも言えない力無い表情が、蘭の胸を強く締め付けた。

「もしかしたら……」
不意に脳裏を過ったのは、新一の言葉だった。

「前に新一が言っていたの。人々は議会も始まって、この国の夜明けみたいに喜んでいるけれど、本当は夜更けに向かっているんじゃないかって」
「それって、この国の人々の思いとは裏腹に、実は悪化していく一方だということ?」
「ううん。そういうことじゃないと思う。その後すぐに言っていたもの。明けない夜は無いって……」

園子は親友から伝え聞いた新一の言葉の意味を量りかねていた。ただ、漠然と自分や家族、そして親友が、抗えない時代の流れの渦に、図らずも巻き込まれてしまっているらしいことに思い至った。

「私には国のあり様とか、政治のこととかはわからないけど、この国の大きな流れみたいなものは感じてる。ねえ、蘭、私たち、この先何が起ころうとも、ずっと友達でいられるよね?」

園子の必死な瞳に、どう言葉を尽くして安心させようと思うのだが、その言葉が思い浮かびそうに無い。不器用なまでの笑顔を取り繕って、ただ一言を言うのがやっとだった。

「当たり前じゃない!」

蘭の答えに安心したように園子は微笑むと、いきなり蘭をギュッと抱きしめた。
そして、困惑する蘭の耳元に、蘭が親友で良かった、と小さく呟くと、すっと立ち上がり、窓を開けて外を望み、ゆっくり深呼吸した。

「せっかく、お天気も良いんだし、庭に出て、お茶でもしようか?」
「うん!」

親友の手を引く園子の顔に、いつもの明るい笑顔が戻っていた。

「蘭!?」

蘭はすっかり思考の迷路にはまっていたらしい。
慌てて振り返ると、寝室のドア口で、新一が怪訝そうな表情で立ち尽くしていた。

「えーと、あの、お帰りなさい。そうだ、晩御飯を用意しなくちゃね」
「俺の分はいいよ、早苗さんのところで済ませてきたから。その様子だと、蘭の方こそ、晩飯まだなんじゃないのか?」
「そういえば、そうかも……」

苦笑いを浮かべてみたところで、新一の目を誤魔化せるはずも無い。そんな蘭に新一は呆れた様子で、それでいて、幼子に対するような穏やかな声で、右手の紙袋を差し出した。
「明日の朝ご飯用にって貰ってきたんだけど、サンドイッチ、食べるか?」
「うん、ごめんなさい……」

自分で、と立ち上がった蘭を制して、新一はキッチンに向かう。蘭は手持無沙汰なまま、リビングのソファに腰を下ろした。

間もなくして、新一は蘭の隣に座り、二つ手にしていたカップの一方を手渡した。
ミルクの温もりが、心の緊張を解きほぐしていく。食事を終えるまで問い掛けようともしない、新一の心遣いが嬉しかった。

「ごちそうさまでした」
蘭はその場で小さくお辞儀をする。

蘭が大きく息を吐き出すのを待って、新一は口を開いた。
「早苗さんも心配していたぞ? 蘭が夕方からあまり元気じゃなかったって」
「そっか。早苗さんにも心配かけちゃったんだ……。ゴメンね……」
新一と目を合わすこともままならず、相変わらず、苦笑いを浮かべることしか蘭には出来なかった。心の内をどう表現して良いものか、わからなかったのだ。

新一は遠慮がちに蘭の肩に右腕を回し、ゆっくりと体を引き寄せた。
「今日は園子のところに行ってきたんだろ? そこで、何かあったのか?」
思いがけない新一の行動に蘭は驚き、慌てるような様子も見せたが、抗うようなことは無かった。
「う、うん……」
新一は出来る限り優しく、蘭の髪を撫でる。
硬直していた蘭の体が、次第に解れていった。

「園子がね、言ってたの。園子のおじ様が、この国を離れることも想定して、その準備をしているらしくて、園子に対しても、自分の荷物を纏めておくように言われたって」
「そうか……」
「ねえ、新一、この国で今、何が起こっているの? 新一の言っていた闇って、一体、何なの?」

腕の中で見上げてくる必死な視線を受け止めながら、新一は蘭への答えを思案していた。今は蘭の不安を取り除くのではなく、その真っすくな視線に応えることが大切なのではないか?

園子の父の危機管理能力は、いや、危機察知能力には感心すべきなのだろう。
蘭や園子の不安な気持ちもわかるが、おそらく、二人の畏れる未来を迎えることになるだろう。新一自身もその方が良いと思っている。鈴木家は、一時的にも国外に脱出すべきだろうと。

新一は大きく息を吐き出した。
「そんなに心配しなくてもいい、不安にならなくてもいいとは、俺の口からは言えない」

思いがけない新一の答えに、蘭は目を見開き、絶句した。
新一は再び大きく息を吐き出す。
「今日、京極から、王宮の周囲で不穏な動きが見られると、報告があった」
「え!?」

今までとは違う不安の色が、一瞬にして、蘭の表情を覆い尽くす。

「大丈夫だ。俺が言うのも変な話だが、国王の周囲には、近衛部隊も含めた軍人にしろ、侍従にしろ、特に優秀な人材が揃っているというから。蘭のお母さんを含めてな」
「本当に、大丈夫なの?」
「ああ」

新一の確信に満ちた言葉を聞いて、蘭の表情が少しだけ緩む。
新一は蘭の髪にそっと右手を触れた。

「俺もできる限りのことはするから」
「え!?」
「一時的にはどうであれ、蘭や園子が不幸にならないように、最終的には、みんなが笑い合えるように、最大限、力を尽くすから!」

新一の力強い言葉と穢れの無い瞳に、蘭は自分でも不思議なまでの安らぎを覚える。新一の右手の温もりが優しい。蘭は新一の胸に身を委ねる。心音が心地良いリズムを刻んでいた。窓の向こうでは、いつの間にか、冷たい雨が提無津川を静かに打ちつけていた。

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