柔らかく降り注がれる日差しの中で、志保は窓辺に座り、子供の頃に何度となく読み耽った本に視線を落としていた。けれど、志保の脳裏にあったのは本の内容などではない。志保の隣で眠る蘭のことだった。
蘭との出会いはあまりにも衝撃的なものだった。
意識を失った状態で新一に抱えられ、真っ白なはずのスカートは深紅に色を変えていた。それは、年頃の娘の姿としては、悲惨としか言いようがなかった。
志保を驚かせたのはこれだけではない。
それは、治療時のこと。傷に触れぬようにと慎重に服を脱がしてみると、血で染まったスカートには似つかわしくない傷の少なさで、しかも、体に残された傷にしてもどれもが浅く、胴体部分には一切見当たらない。蘭のスカートを染めていたのは蘭自身の血ではなく、ほとんどが返り血だったのである。
(刃物を持った複数の男たちに襲われたというのに、どうやったら、これだけの傷で済むというのよ。こんな華奢な体で……)
いつの間にか、窓からの日差しは部屋の奥まで届こうとしていた。
志保は静かに本を閉じる。
「……ここは?」
半日近く眠っていた蘭が目を覚ましたのだ。
「ようやく、気が付いたようね」
「あなたは? それに、私はどうして?」
「それは……、少し待っててもらえるかしら?」
穏やかに微笑んでそう答えると、志保は部屋を後にした。
一人部屋に残された蘭は、ベッドの中から辺りを見渡してみたが、見知ったものは何も無かった。とりあえず、身体を起こそうとするものの、体中に鈍い痛みが襲った。
(そうか、あの時……)
ふと見れば、両手両足にはいくつもの包帯が巻かれ、自分のものとは違う服を身に着けている。曖昧だった意識がはっきりしていくにつれ、蘭は不安に襲われていった。心を落ち着かせるよう深呼吸をし、痛みに耐えて再び身体を起こしたその時だった。
「蘭、俺だけど、中に入っても良いか?」
「新一さん、なの?」
「ああ」
「良かった、無事だったのね。あ、どうぞ、中へ」
静かに開かれるドア。新一の声と姿に、蘭はようやく緊張の糸をほぐしていった。
「痛みはどう?」
「一つ一つは大したことは無いんだけど……」
「だろうな」
そう言う新一の手足にも傷の手当ての痕が見えた。
「新一さんの方こそ……」
「俺はまあ、これくらいのことは慣れているからさ」
「私には見え透いた嘘のようにも聞こえるけど?」
二人の間に笑顔が戻った。
「ところで、このお屋敷は新一さんの?」
「いや。あの丘で言った信用できる知り合いの屋敷っていうのがここで、蘭が目覚めるまでここにいたのが、志保といってここの家主。本当はこの家には他に、志保の親戚の博士もいるんだけど、今日は外出しててさ。志保はああ見えても医者としての知識があるから、蘭の手当てはあいつに頼んだんだ。俺もある程度のことはできるけど、何かとその、マズイだろうと思って……」
「そうだったんだ……」
二人は思わず互いに視線を逸らした。
「あ、そうそう、傷の具合についてだけど、志保が言うには、極度の緊張状態から開放されたことで貧血を起こしたんだろうって。多少はケガの影響もあるんだろうけど、出血量は大したことはないから、今後の心配は要らないそうだ」
「そう……」
二人の間に気恥ずかしさから、急に気まずいムードが漂い始めていた。
不意に、二度のノックとともに、ドアが静かに開いた。
「入ってもいいかしら?」
「あ、ああ」
ギクシャクする二人を救うかのような志保の登場だった。
「今日は何かと助けられっぱなしだな」
新一がふと漏らした言葉は、二人の耳には届くことは無かった。
「二人とも朝から何も食べていないでしょ? そう思ってスープを用意したから、温かい内にどうぞ。特に蘭さんは、少しでも食べて体力を付けないと」
「ありがとうございます、志保さん。新一さんから聞きました。何から何までお世話になったみたいで、何とお礼を言ったら良いのか……」
「大したことはしてないし、お礼なんて要らないわ。それに、昔から何かとトラブルには慣れているし」
と、志保の視線は新一へと向けられた。
「悪かったな、トラブル続きで。どうせだから、ついでに、もう一つだけ頼まれて欲しいんだけど?」
「どういったご用件でしょうか?」
必要以上に恭しく答える志保を気にすることも無く、新一は言葉を続けた。
「馬を一頭、すぐに出せるようにして欲しい。このスープを飲み終わったら、蘭を街まで送ってくるから。今からなら、並足でも日が暮れるまでには街に着けるだろうし、それに、歩くより馬の方が傷口への負担も少ないだろう? 本当は、今夜くらいはここで休んでいった方が良いんだろうけど、それだと、蘭のお父さんが心配するだろうからさ。まあ、この姿だから、今帰ったとしても、別な心配はすることになるだろうけど」
「新一さんだってケガしてるのに、そこまでしてもらうわけには……」
「無駄よ、蘭さん。こうと決めたら、テコでも動かないような人なんだから。それとも、あなたが一晩、ここに泊まると言うのなら、話は別なんでしょうけど?」
「それは……」
「でしょうね。それじゃあ、私は馬の用意をしてくるわね。それと、蘭さん、その服だけど、返してもらわなくてもいいから。元々、私はほとんど着ていなかった服だし。あなたの服については、一応洗ってはみたけど、血液汚れだからどうしても落ちなかったの。持ち帰っても嫌なことを思い出すだけでしょうし、もし何だったら、私の方で処分するけど?」
「お気遣いありがとうございます。でも、一応返してもらってもいいですか? もう二度と着ることは無いと思いますが」
「あなたがそう言うのなら……、わかったわ」
その後、新一と蘭の二人が志保の家を発つ頃には、西の空はうっすらと赤く色付き始めていた。
今朝の喧騒がまるで嘘であったかのように、森は静寂に包まれていた。
次第に赤みを増す木洩れ日の中を、二人を乗せた馬はゆっくりとその歩みを進めていた。
「今日は本当にゴメンなさい。私が新一さんの忠告に素直に従わなかったせいでこんなことになってしまって……」
「別に蘭が謝る必要なんて無いさ。悪いのは襲ってきた奴らの方なんだし」
「でも……」
「仮に、蘭が俺の忠告通りにあの丘に行かなかったとしても、俺が奴らと鉢合わせしなかったとは言えないだろ? もし、俺一人で奴らと対峙することになっていたら、この程度のケガでは澄まなかったはず。下手をすると、命すら危なかったかもしれない。俺はむしろ、蘭には感謝してるよ。ただし、もう二度と一人で街を離れるなよ?」
「はい」
「しかし、俺も情けないよな。蘭を守るとか言っておきながら、結局は……」
「情けないなんて、そんなことないわ! あの時、新一さんのあの言葉がどれだけ心強かったことか」
「そうか……。それより、どうして蘭が護身術なんかを? 普通に街で暮らしている人間には、護身術など必要ないはずだが? まして、女の身で護身術なんて」
「子供の頃、お母さんと一緒に、お父さんから教わったの。今は辞めてしまってから久しいけど、その頃お父さんは警吏をしていたから」
「警吏仕込みの護身術ね……。道理で強いわけだ。その、警吏を辞めたお父さんは、今は何を?」
「本人は『町の何でも屋』なんて言っているけど、詳しいことは私にもわからないの……」
「警吏から何でも屋、か……。もしかして、蘭のお母さんが王宮に上がった後に、お父さんは警吏を辞めたとか?」
「ええ」
「そうか……」
それきり、しばらくの間、二人は言葉を失ったままだった。
「なあ、蘭。俺、蘭に謝っておかなくちゃならないことがあるんだ」
「私に謝るって?」
「ああ。最初に蘭や園子と会った時に、二人の関係を見て、身分制度の崩壊だとか言っただろ?」
「ええ」
「あれは、俺が言うべきことでは無かったんだ。なぜなら、俺自身がその身分制度とやらを無視してるのだから…」
「え? どういうこと?」
「それは、俺と志保とのことだけど、身分云々で言えば、俺が主人で志保は侍女。でも、蘭も見ての通り、そんな風には見えなかっただろ?」
「そうね、もしかしたらとは考えたけれども……。ということは、やっぱり、新一さんは貴族階級の人だったのね」
「一応はな。これでも、それなりに歴史はある貴族の一人息子。とは言っても、今はその城からも追い出されて、さっきの屋敷に厄介になってるんだけどさ」
「え、嘘でしょ? だって、貴族の子息でそんな話……」
「まあ、普通は無いよな。ただ、俺の両親、特に父親っていうのが、ちょっと、いや、かなりの変わり者でさ。志保とのことにしたって、身分とは関係無しに、姉弟のように育てられてきたくらいだし。身分制度の崩壊は、ずっと前からあったんだよ、少なくとも、俺の身近なところではな……」
「そうだったんだ……」
二人を乗せた馬は静かにその歩みを止めた。街の外れまで辿り着いたのだ。
手綱から延びる縄を近くの樹に固く結びつけ、二人は黄昏の街へと歩み始めた。
「今朝の約束は、ちゃんと守らないとな」
「え?」
「近い将来、この国は変革の波に渦に巻き込まれることになるはず。それは到底抗えるものではなく、国全体の混乱へとつながっていくだろう。でも、その混乱もいずれは終わる日が来る。そうしたら、あの丘にまた……」
「うん……」
街のシンボルである噴水を前にし、二人は歩みを止めた。
「あのさ、蘭に頼みがあるんだけど?」
「私に頼みって?」
「俺のこと、さん付けて呼ぶのを止めて欲しいんだ。何だか、むず痒いっていうかさ。これからは、『新一』でいいから」
「うん、わかった、新一……」
噴水が小さな虹を作り、夕月が寄り添う二人の影を映し出す。
街中が紅く染まっていた――――