そこに大きな闇があった。
抗っても抗っても闇は辺りを覆い尽くす。
間もなく、身も心も闇に吸収されようというその時、園子は目を覚ました。
「夢、なの!?」
見慣れたはずの薄暗い自室全体をゆっくりと見渡す。
父に言われた通り、大事なものは既にひとまとめにしてある。部屋の調度品はそのままだが、日々季節の草花で彩りを添えてくれていた侍女が暇を出されてしまったため、部屋には花一輪も無く、色も香りも失われ、すっかり殺風景になってしまった。
ただ一つ、枕元に置いた小物入れが、園子の心を癒してくれる存在だった。シンプルなデザインで、作りも珍しいものではないが、いくつものきらめく鉱石がアクセントとなっており、飽きのこない可愛らしさで、園子も気に入っている。これは、蘭と出会ったその日に買ったもので、いわば、蘭と自分とを結び付けてくれたものだった。
その小物入れを手にし、窓の向こう側をそっと望む。窓の外には静寂で、深い闇が広がっていた。
園子は自らの意思に反して小刻みに震える身体を、小物入れごと抱え込むようにして、両手でしっかりと抑えつける。時の感覚が狂ってしまったのか、夜明け前のはずなのに、これから更なる闇が待ち受けているかのような錯覚に陥っていた。
何か悪い夢であって欲しいと願いながら、園子は再びベッドに潜り込んだ。
十月も半ばとなり、米花に秋らしい澄み切った青空が広がった。四か月前にもこの王立劇場には人々が溢れ返っていた。この国の歴史上、初めて市民の傍聴を許された特別議会を見守るために。
そして、その後三カ月に渡って開かれた国民議会の最終回となる予定のこの日、人々は興奮した様子で劇場を取り囲んでいた。
天候不順による農作物の不作と、それに伴う不安定な供給。
遠く聞こえてくる恐ろしい病の噂。
周辺諸国にまで押し寄せている革命の波。
働いても働いても楽にならない暮らし・・・
人々はこの議会に賭けていた。
少しでも、苦しい生活から逃れられるように・・・
少しでも、明るい未来を望めるように・・・
先王の時代に大きく低下した王室への信頼も、まだ失われてはいない。むしろ、この度の議会を開いてくれたことで、再び国王に、王室に、望みを託そうという気持ちに変わりつつあった。
この議会が、庶民の希望を聞いてくれる、叶えてくれる唯一の場と、信じて疑わなかったのだ。
「園子、そのドレス!?」
桟敷席で一人待っていた親友の驚く様子が、園子は嬉しかった。
「覚えていてくれたんだ」
「もちろん。園子のその姿を忘れられるはずがないでしょ? だって、初めて園子がお店に来てくれた時のドレスだもん!」
淡いピンク地に白いレースがあしらわれたフェミニンなドレスは、父史郎のお気に入りだった。自分では、着せ替え人形にでもされたような気がしてあまり好きではないのだが、大切なドレスには違いなかった。
「今朝、衣裳部屋を漁っていたら、目に入ってね。さすがにちょっと、子供っぽかったかな?」
「ううん、そんなことないよ。今でもとっても似合ってる!」
親友の笑顔が心の不安を拭っていく。このドレスを思い切って着ることにして良かったと、園子は心から思った。
園子はいつもと同じように、蘭の右隣に座った。
「あれ? 最終日なのに、今日も新一君は来てないの?」
部屋を見渡してみても、室内には入り口近くに控える京極の姿しかなかった。
「うん。少し気になることがあるから調べてくるって、朝早くに出かけたきりで。間に合うようだったら、駆けつけるとは言っていたけど……」
そこまで言うと、蘭の表情は曇ってしまった。
自分と同様に蘭も言い知れぬ不安を抱えているはずだ。いや、家族と離れて暮らしているのだから、その不安は自分よりも大きいはず。その不安を拭えるのは、家族の他には自分ではなく、新一だけなのだろう。園子はこの場にいない新一を恨めしく思った。
「そっか。今日の会議ではいろいろと決まるみたいだし、博識の新一君に解説をお願いしようかと思ってたんだけどなぁ……」
園子は努めて明るくそう言うと、何の気なしに振り返った。すると、京極と視線が交わってしまう。慌てて作り笑顔で誤魔化そうとしたが、京極は真剣な表情で、遠慮がちに口を開いた。
「私は根っからの武人ですし、生まれも育ちもこの国ではありませんので、新一様のように、正確なことは答えられないかと思います」
「私、そんなつもりじゃ……」
園子は京極に何かと求めて振り返った訳ではない、と説明したいのだが、思うように言葉が続かない。日頃、表情に乏しい京極が、珍しくきょとんとしている。二人にすれ違う思いを察し、蘭は助け船を出した。
「園子は単純に、新一が早く駆けつけないかなぁとか、そういった軽い気持ちで振り返っただけだと思いますよ。だよね、園子?」
「う、うん」
蘭の言葉で、京極はようやく自身の勘違いに気付いたらしく、今度は顔を紅潮させた。
勘違いだったにせよ、園子は自分に対して、まっすぐに答えてくれた京極を好ましく思った。そして、今こうして頬を染める姿を、可愛らしくさえ思えた。
ふと、視線を自身の護衛にも向ける。京極よりも年上であるはずの従僕は、やはり、恐縮した様子で首を横に振るだけだった。
「自分たちで考えなきゃダメみたいね……」
園子は一人苦笑する。
だが、京極のお陰で、一度は重苦しくなりかけた雰囲気が、穏やかなものへと変わっていた。
「それにしても、今日みたいに、米花の内外から人が集まって、宿泊客も書き入れ時だというのに、おかみさん、よく二人とも仕事を休ませてくれたよね」
「うん。亡くなったご主人の方針で、祭りなんかで興奮した人が集まる時はお客さんの質が望めなくなるから、常連客以外は相手にしないんですって」
「なるほど。確かに、そういう考え方もあるわね……」
眼下では、場外の喧騒をよそに、臨時議員たちによる微妙な駆け引きが繰り広げられていた。
と、その時、開会を知らせる号砲の音が場内にも届く。間もなくして、議長を筆頭に、黒衣をまとった人々が続き、ややあって、最後に国王の入場となった。
「結局、私は王妃様の姿を見られず終いか……」
「私も、もう一度、見ておきたかったんだけど……」
その内にある思うに違いはあるが、二人にとってこの言葉は、切なる願いだった。
議長によって、木槌が打たれた。
「これより、最後の国民議会を開会する。本日は、これまでに論じられた法案、議案の議決の後、国王陛下より宣告がなされる予定であることを、承知しておくように。では……」
と、それまでの合意事項の説明が始まった。
労働力や兵力の増強を目指し、初等教育の義務化を進める。
貧困者対策を目的とした、各教区への扶助税の創設。
大渡間監獄のような不当な逮捕および収監を防ぐために、人身保護法の制定。
各地からの陳情書の提出。
これらの議案は比較的スムーズに議決され、次に先々代の国王の時代に義務化され、男爵以上の貴族に課せられた、宮廷への伺候に関する議案は移っていた。
「『これは是非、廃止するなり、緩和するなりして欲しい』って、お父様も言っていたわ」
それまで議事の進行を、どこか他人事のように眺めていた園子が、急に語気を強める。
「え!?」
その口調に、園子自身も驚いたが、戸惑う蘭に苦笑を返すと、ようやく自分にもわかる話だからと、説明を続けた。
「この制度は、今の国王が即位されてからは三年に緩和されたけど、それまでは、二年に一度、貴族たちは国王に謁見するために、宮廷を訪れなくてはならなかったの。米花やその近くに住む人たちは、まだいいわよ。でも、地方の貴族にとっては、その負担は大変なものだったらしいわ。時間的な制約もそうなんだけど、何よりも、金銭的な負担がね。だから、その分を領民に課すという地方の領主も多いって話よ」
「上手く言葉にできないんだけど、それって、その地方の領民にしてみれば、とっても不公平というか、理不尽なことだよね? そもそも、なぜ国王陛下に謁見が必要なの?」
「蘭は王権神授説って聞いたことがある?」
「うん。文字通り、国王の地位は神様から授けられたものってことだよね?」
「ええ。この説を先々代の国王が力説していたらしく、その証にというか、より強く権威を臣下に示すために、伺候なんてものを始めたそうよ。臣下の様子も、直接会うことで窺い知ることができるしね。ただ、先代の国王があんな辞め方をしたから、王権神授説はすっかり意味を失い、今の国王様が即位後すぐに緩和したそうだけど」
「そんなことが……。私、情けないというか恥ずかしいことに、『伺候』という言葉自体、今日初めて聞いたよ?」
「それは仕方がないわよ。元々が、米花の人間の多くには関係のない制度だもの。私だって、たまたまお父様がこの制度に前々から反対していて、今までに何度が説明されていたから、知っていたってだけだし。そもそも、お父様が貴族というか、封建制度に疑問を抱くきっかけになったのが、この制度だったらしいから」
今さらのように、やはり、園子は自分とは違う、貴族階級の人間なのだと、改めて思わされる。今日の服装一つとっても、その違いは端的だ。ドレスを身にまとう園子に、メイド服と変わりない自分の服。お手製のこの服を作ったのは、もう一年近くも前だったはずだ。
思えば、自宅アパートを出てからは、一着も新調していない。以前、教会で夜に一人で針仕事をしていた時に、本人にそんなつもりは無かったのだろうが、寂しそうに、そして申し訳なさそうに、僅かに表情を歪めた新一を見て、彼の前で急な繕いを除いては針仕事はしない、と心に決めた。あの時、今さらのようにはっきりと、身分の差を意識したのだ。今も、あの時に抱いたものと同じ寂しさを蘭は感じていた。
場内にこの日何度目かの木槌の音が響いた。
宮廷への伺候は廃止となり、その代わり、四年に一度は宮廷の内外は問わず、国王に謁見すること。そして、世襲等で新たに爵位を得たり領主となった者については、一年以内の国王への新任の挨拶が義務となると、議長から告げられた。
「そう言えば……」
蘭の視線が国王を捉えた。
「国王も世襲するのよね? でも、今の国王様にはお子様はいらっしゃらない。とても不謹慎なことを言うようだけど、もしも、国王様に何かあったらどうなるの? 今の国王様は傍系の王だと新一が話していたけど、次の国王もそうなるのかしら?」
「さあ……。本来であれば、お二人のお子様が継がれるはずだったんでしょうけど……」
「え? それってどういう意味!?」
「私もかなり前に一度聞いただけだから、詳しいことは知らないのだけど……、実は、お二人の間にはお子様がいらっしゃったそうよ。それも、男のお子様が。ただ、国王に即位される前に、病気で亡くされたそう。王妃様が病がちなのも、一人息子を亡くされた影響があるんじゃないかって話だったわ」
そこまで言って、園子は大きく息を吐き出した。
「この国は他の国とは違い、貴族制度には厳格で、安易な爵位の譲渡や売買は認められていない。それは国王といえども同様で、養子なども簡単に迎えられないそうよ。国王様にはいとこだったか、甥御さんがいらっしゃるみたいだけど、その方が継がれるかどうかは……。うちもね、姉と私の二人だけでしょ? 基本的に男系男子にしか世襲できないから、このままだと、うちも廃爵になるの。でも、もし姉や私に男の子が産まれたら、その子に継がせることはできるんですって。だから、お父様は私たち姉妹の子供に、鈴木家の未来を賭けているみたい。男の子が産まれても産まれなくても、それが天命なんだろうって。何だか変な話でしょ?」
蘭は曖昧に頷くことしかできなかった。
新一と出会い、少しは視野が広まったと思っていたが、蘭にとって、今日の園子の話の数々は、未知の世界のものだった。
(私はあまりに世間を、世界を知らな過ぎる・・・)
蘭は胸が強く締め付けられる思いがした。
いつの間にか、場内が騒然としたものに変わった。
議案は選挙制度の改正に移っていた。これまでの議会でも早急に取り掛からなければならない、重要にして、かつ、難解なテーマだった。既得権益に溺れた者たちからの抵抗が、特に激しいのだ。
「こんな状況で、本当に今日中に決まるのかしら?」
時に怒号も飛び交う場内を眼下に見下ろして、園子は呆れたように言う。
胸のざわめきが収まらない蘭は、ただ苦笑を返すだけだった。
どれくらい時間が経過したのだろうか? 騒然とする中、どうにか選挙方法が決まり、最難関の議員定数へとテーマが移ろうとしたその時、二人のいる桟敷席に、慌ただしく駆け付ける足音が聞こえてきた。部屋の中の四人は自ずから身構え、京極と鈴木家の護衛が蘭と園子との前に立ちはだかる。勢いよく開けられたドアに、一瞬にしてその場は緊迫した空気に包まれたが、目の前に現れた人物の顔を確認すると、二人は男はその拳を下ろした。
「園子、今すぐに史郎氏に取り次いで欲しい」
「新一!?」
と名前を呼んだのは、声をかけらた園子ではなく、蘭だった。
新一は珍しく、肩で息をしていた。
「いきなり何? どういうことなの、新一!?」
「今しがた、司教の一人が殺害された」