22.疾走

「今しがた、司教の一人が殺害された」

新一のこの言葉だけで、その場にいた誰もが事の重大さを感じ取った。
教会のトップに立つ大司教の次の地位にある司教は、この国に十人といない。そのような重要人物が殺害されたなどということは、前代未聞の事件だった。

「わかったわ。ちょっと待っててくれる?」
園子は深い溜め息を零すと、バッグから手持ちの便箋を取り出し、落ち着いた様子でペンを走らせた。

その間、新一は廊下まで下がり、窓から劇場の外の様子を窺う。それまでと変わらない、期待に満ちた人々の表情がそこにはあった。

数分と掛らない間に父へのメッセージを書き終え、簡単に封を済ますと、園子はそのまま新一に手渡した。
「彼を連れていくといいわ」
と、自らの護衛に視線を向ける。男はまっすぐに視線を返し、頷いた。

「あの……」
と、蘭が遠慮がちに声を掛ける。
新一は苦笑を返し、蘭の元に近寄ると、蘭にだけ聞こえるように耳元で囁いた。
「必ず迎えに行く」
それだけ言うと、一歩下がり、強い口調で蘭と園子に言った。
「二人とも、今すぐにここから出るんだ。劇場の裏口に馬車を用意してあるから。京極!」
と、今度は自らの臣下の方に向き直り、命令する。
「二人のことを頼む。くれぐれも油断するなよ!」
「は!」

「では……」
と、鈴木家の護衛に促され、新一は部屋を後にした。
去りゆく背中に、蘭は思わず名前を呼び掛けたが、今度は振り返ることなく、新一は行ってしまった。

京極を先頭に、蘭と園子、そして廊下の外で控えていたもう一人の護衛を含めた四人は、興奮する人々の群れの中を足早に抜け、劇場裏の小道へと急いだ。
そこで待っていたのは、蘭の見知った人物だった。

「皆さん、こちらの馬車です」
「佐藤、さん!?」
軍服を纏っているため、遠目には男性にも見えたが、紛れもなく、蘭の舞踏会デビューに助力した彼女だった。

「蘭さんに、あなたが鈴木園子さんですね?」
「あ、はい」
園子は訳もわからないままに頷く。
「二人とも、とにかく馬車の中へ」
佐藤に促され、蘭、園子の順に馬車に乗り込む。その後に鈴木家の護衛が続こうとするが、
「恐れ入りますが」
と、佐藤がすっと右手を出し、阻止した。穏やかな口調ではあったが、佐藤の視線に園子は強い意志を見て取る。混乱を隠せぬまま、隣に座る親友を見ると、やはり、強い視線で頷いて見せた。

「あなたの心配はごもっともだけど、ここは私たち女性陣だけにして貰える?」
「しかし、園子お嬢様……」
「大丈夫、私はあなたのことを信頼しているから、あなたも私のことを信頼してくれるわよね?」
その誰に対しても分け隔てのない笑顔を向けられては、従僕は素直に従うしかなかった。
佐藤は京極の耳元に二言三言伝えてから、馬車に乗り込む。ドアが完全に閉まりきるのを待って、馬車は走りだした。

馬車が人垣を抜ける頃になって、佐藤は居住まいを正すと、改まった様子で頭を深々と下げた。
「先ほど来の数々のご無礼をお詫び申し上げます。遅くなりましたが、改めまして、わたくし、佐藤美和子と申しまして、新一様の臣下を務めております」
「えーと、あの、鈴木園子です。はじめまして……」
と、佐藤に釣られるように、園子も畏まって頭を下げた。

堅苦しい雰囲気を少しでも和らげようと、蘭は努めて穏やかな口調で、二人の間に入った。
「前に私、新一に舞踏会に連れて行ってもらったことがあったでしょう? その時にお世話になったのが、こちらの佐藤さんなの」
「じゃあ、蘭がドレスを借りたり、作法を教わったという?」

佐藤は照れくさそうに微笑を浮かべ、小さく頷く。
が、すぐに表情を真剣はものへと戻した。
「お二人に新一様から言伝を預かっております」
佐藤に倣って、蘭と園子もまた居住まいを正した。

「その前に、園子さんに確認しておきたいのですが、大切なお荷物を纏められているそうですが、それは、お屋敷にあるということで間違いないでしょうか?」
「あ、はい」
「この馬車は今、鈴木邸に向かっております。念のために少し遠回りしておりますが、お屋敷に到着次第、そのお荷物をお持ち頂けますでしょうか?」
「それじゃあ……」
蘭の声に、佐藤は恐縮した様子で頷く。
「はい。鈴木家の皆様には、お屋敷から避難して頂くようお願い致します。ご当主の史郎氏には今頃、新一様から説明がなされているはずです――――」

「お話は大よそわかりました」
この日、初めて会った若者の説明に、史郎はすっかり聞き入っていた。
自分が恐れていた通りの事態が、今、正に起きようとしているのだ。

馬車の中には、自らの従僕と、この工藤新一という若者だけだった。
新一は馬車に乗り込む際に、史郎とその従僕に言った。
『もし、僕に不審な動きが少しでもあれば、その時には遠慮せずに、その腰の剣を抜いて下さい』と。

「大変不躾なことを伺うようですが、避難先として、どちらをお考えでしょうか?」
「上の娘の婚約者が賢橋公国の者で、私の別荘もその近くにあるので、とりあえずはそちらに、と考えております」
「不躾ついでに生意気なことを申し上げますが、それは止めた方が宜しいです。賢橋公国は先ほど革命がなされたばかりで、政情はまだまだ不安定、決して安全な避難先とは言えません」
「確かに、君の言うことにも一理あるが……」
「僕の記憶違いでなければ、鈴木卿は西国の寝屋川でも慈善事業をされていて、別荘もお持ちでしたよね?」
「では君は、私たちに寝屋川に向かえと」
「はい。そうして頂きます方が、僕としても安心です。寝屋川にはツテもありますので」

目の前の若者のことは、娘から何度か聞かされていた。
一般的な貴族観で見ると違和感を抱かざるをえないが、若いながらも冷静沈着にして聡明で、十分に信頼に足る人物だと。
確かに、少し話しただけでも、その内容は理路整然としているし、年齢の割には礼儀作法や所作もしっかりている。若い頃から貴族社会を飛び出し、様々な種類の人々と接してきたから、それなりに人を見る目には自信があるつもりだ。
その目をもってしても、今まで出会ったどの若者よりも、信頼に値する人物のように思われた。

「わかりました。君の提案を受け入れるとしましょう」
「寛容なお心と賢明なご判断に感謝致します」
新一は恭しく頭を下げた。

「―――― お二人とって大変辛いことをお願い致しますが、当分の間、お別れして頂くことになります」

佐藤の言うことは、蘭も園子も心の片隅では覚悟していたはずだった。だが、頭ではわかっていても、感情では納得できずにいた。
二人の手は、どちらからというでもなく、強く握られる。恐れていた現実を目の前にし、二人は身体を震わせていた。

「新一様は、私にこのように指示されました」
佐藤はあえて表情を無にし、淡々と言葉を続けた。
「お二人を連れて屋敷に向かい、園子さんの荷物を持ち出したら、そのまま大学の植物園口に向かうように。ご自身は別の馬車で史郎氏を説得して、園子さんのお母様やお姉様を連れ出してから合流する、と。これが、どういった意味を持つか、おわかりになりますか?」
突然の問いかけに、蘭も園子も首を横に振るだけだった。
「それは、お二人に少しでも長い時間、一緒に過ごして欲しい、難しいことだろうが、お二人にきちんとした形でお別れして欲しい、と願われてのことです」

不意に園子の頬に涙が伝う。

出会いは最悪なものだった。
その後も、直接会ったことは片手で足りるくらいしかないのに、話したことですら数える程度でしかないのに、今までも、そしても今も、蘭との時間を大切にしてくれる新一の配慮が今は何よりも嬉しく、有り難かった。

「私たち、いつだって、どこでだって、友達だよね?」
その瞳に大粒の涙を湛え、懸命に笑顔を向ける親友の姿に、蘭の脳裏に大切なおまじないが蘇る。
蘭はぎこちなく笑うと、努めて明るく、そして、力強く答えた。
「当たり前じゃない! だって私たち、同じ空の下にいるのよ!」
この時、園子の瞳から零れ落ちる涙の色が変わった。

右手で園子の涙を蘭はそっと拭う。
そして、遠慮がちに佐藤に問いかけた。

「佐藤さんがわざわざいらして、京極さんもこちらの馬車に乗られたということは、この馬車が狙われるかもしれないから、ということなんですよね? では、新一や園子のお父さんが乗っている馬車の方は?」
「新一様には、高木君が付いていますから」
蘭はおおよそ軍人には見えない、人の良さそうな青年の姿を思い浮かべた。

おそらく、不安そうな顔色に変わっていたのだろう。佐藤は苦笑を浮かべながら、言葉を続けた。
「高木君はああ見えても有能ですし、私の最も信頼する部下、いえ、同僚なんです。それに、新一様ご自身が、とても有能な武人ですから」
蘭はかつての高木の言葉を思い出す。高木はあくまで自分は佐藤の部下だから、と恐縮していたが、彼はこれほどまでに信頼されていることを知っているのだろうか?

そうこうしている内に、馬車は鈴木邸へと到着した。
京極を馬車に一人残し、四人で屋敷へと向かう。園子と蘭はそのまま真っすぐ園子の部屋へと向かい、佐藤と鈴木家の護衛は、屋敷に留まっていた園子の母朋子と、姉の綾子に事情を説明する。二人とも、一様に驚きの表情を見せたが、すぐに状況を飲み込み、それぞれの身支度に取りかかった。

いち早く荷物を持ち出した園子は、蘭と共に、閑散とする廊下を足早に進む。その途中で母と姉の姿を認め、二言三言の僅かな言葉を交わす。蘭はその都度、丁寧に頭を下げた。

それぞれに複雑な思いを抱え、サロンで待機していた佐藤たちと合流し、京極の待つ馬車へと向かった。
まず園子が乗り込み、続いて、蘭がステップに足を掛ける。
と、その時、周囲の空気が一変する。馬車を取り囲むように、見知らぬ男たちが現れたのだ。

佐藤は蘭を強引に車内に押し込むと、自らの短剣をかんぬき代わりにし、ドアを塞いだ。
曇りガラスの向こう側から怒声や呻き声、剣が交える音や、人が倒れこむ音などが聞こえてくるが、誰がどのような様子なのかまでは、馬車の中の蘭と園子にはわからない。身を震わせる園子を自らの背で隠しながら、蘭はドアを注視した。当然のように恐怖心はあるものの、それよりも、こうして京極や佐藤たちにただ守られている状況が歯痒く、心苦しかった。

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