23.かけがえのない人

時を同じくして、もう一台の馬車が鈴木邸に辿り着く。
この時ほど嵌め殺しの曇り窓を苦々しく思ったことのなかった新一は、馬車が停まりきる前に車内から飛び降り、手綱を握る男に大声で叫んだ。
「高木! お前は鈴木卿のご家族を保護しろ! 頼んだぞ!」
「はっ!」

倒れている者も含めると、三十人はいるだろうか? ざっと見たところ、軍人崩れか何かなのだろう。それぞれに腕前はなかなかのもので、いつかのごろつきたちとは、比べるまでも無い。周囲に知られて駆け付けられることを恐れてのことなのか、見渡す限りではあるが、銃の姿が見えないのは不幸中の幸いと言えるかもしれない。足元に倒れていた男の手から剣を奪うと、新一は史郎を守るべく、ドアの前に立ちはだかった。

「蘭と園子は?」
襲いくる男を薙ぎ倒しながら、新一が叫ぶ。
「お二人とも車内でご無事です」
答えたのは、新一同様に馬車のドアを背にし、死守していた佐藤だった。
もう一人の臣下の軽快な動きを確認し、新一は今一度叫んだ。
「そのまま二人を守り抜け!」

向かい合う馬車の間は十メートルほどであろうか。新一の言葉で、男たちの多くが蘭たちの乗る馬車から、新一の守る馬車の方へと移動を始める。男たちの動きは、新一の読み通りだった。
新一の意図を察知した京極もまた、男たちの後を追った。

男たちの動きに、一瞬、視線を奪われた佐藤の身に、僅かな隙が生じる。それを一人の男が見逃さなかった。男が佐藤に体当たりする。大きく体勢を崩した佐藤の姿を確認し、男はかんぬき代わりの短剣を外し、ドアに手を掛けた。
佐藤は慌てて体勢を立て直すものの、間に合わず、今まさに、ドアが開かれようとしていた。
が、次の瞬間、男の体が一気に馬車から離れる。車内から蘭が男を蹴り飛ばしたのだ。

蘭はそのまま馬車から一人降りた。
「佐藤さん、おケガは?」
「あ、はい、大丈夫です。それよりも、申し訳ありません。蘭さんにこのような危険な真似をさせてしまいまして」
「いえ、私でも、少しはお力になれたらと思ってのことですから」
蘭も佐藤も周囲への注意は怠っていない。馬車を囲っていた男たちも、近くにいるのは三人だけに減っていた。

不意に、新一と蘭の視線が交わる。
蘭の口元が素早く『ごめん』と形作ったのを見て取って、新一は微苦笑を返した。

まだ数的には不利な状況にあったが、その勢いは新一たちにあった。襲いくる男たちの表情には焦りの色が濃くなり、無駄な動きも増え、体力も限界に近付こうとしていた。
間もなくして、数的にも有利になろうというその時、突然、蘭が叫び声を上げた。
「新一! 左!!」
蘭の視線が馬車越しの木陰にライフルを構える男の姿を捉えたのだ。

新一は咄嗟に足下に転がっていたミニタリ―バッグを、右足で思いっきり蹴り付けた。
その男にとって、新一の行動は予想だにしていなかったのだろう。男が避けるよりも先にバックがライフルに当たり、周囲に銃声だけが鳴り響いた。

まるで、その銃声が合図であったかのように、鈴木邸から応援の者たちが駆け付ける。残りの襲撃犯たちからは戦意が奪われ、鈴木卿側の被害も最小限の内に事態は収束した。
襲撃犯は全部で三十に人で、内、犠牲者は一人もいなかった。
手分けして襲撃犯たちを縄で拘束する。辺りにようやく平穏が戻った。

史郎と園子がそれぞれの馬車から下りてくる。
園子は何も言わず、蘭に抱き付いた。

「鈴木卿、彼らの顔に見覚えはありますか?」
との新一の問いに、
「いや」
と、史郎は首を横に振る。
予想はしていたが、意識がある男たちに問い質しても、何も答えようとはしない。身形や持ち物からも、特に身元を示すようなものは何も無かった。

高木に連れられ、朋子と綾子が駆け付ける。二人とも顔色は真っ青だったが、家族の無事を知り、それぞれにホッと安堵の表情を浮かべた。

鈴木家から少し離れたところで、蘭は躊躇いがちに新一の元へと歩み寄る。
「ったく、また無茶なマネを……」
「ごめんなさい……」
うつむく蘭の頭を、新一はポンポンと叩いた。
「けど、そんな蘭の無茶が無ければ、俺も今頃どうなってたかわからないからなぁ」
確かに、あの時、蘭がライフルの存在に気付かなければ、新一が無事でいられたかどうかはわからなかった。
「蘭には助けられっぱなしだな」
戸惑いの色を隠せぬまま顔を上げた蘭に、苦笑を返した。

「この襲撃犯たちのことだけど、佐藤さんと高木さんに任せても大丈夫ですよね?」
「はい、お任せ下さい」
と、力強く答えたのは佐藤。高木もすぐ横で、大きく頷いて見せた。
新一は一瞬、満足そうな笑みを浮かべると、すぐに真剣な表情に変わり、数メートル先の史郎の方へと向き直った。
「ご家族の無事をお喜びのところを恐縮ですが……」
史郎の顔に緊張の色が戻る。朋子や二人の娘たちもまた、困惑の色を隠せずにした。

新一は蘭を伴って史郎に歩み寄り、落ち着いた口調で、語気を強めながら言葉を続けた。
「先ほどの銃声のこともありますし、間もなく野次馬たちも駆け付けることでしょう。後のことは僕たちで何とかしますから、皆さんは騒ぎとなる前に、出発された方が宜しいかと思います」
「何とかなると言っても、君……」
「大丈夫です。このような事態も想定しておりましたので」
そう言って、新一は穏やかに笑った。

「お言葉ですが……」
突然、声を上げたのは、朋子たちに付き添っていた鈴木家の執事だった。
「事情はこちらの高木様から伺いました。史郎様はどうか、奥様やお嬢様たちをお連れになって、避難なさって下さいませ。お屋敷のことは、不肖ながらこの田中が全身全霊をもって、お守り申し上げますので」

史郎にとってその小柄な初老の男は、家族よりも付き合いは長く、誰よりも信頼していた。当然のように寝屋川にも帯同させるつもりでいたが、この混乱する米花に残り、屋敷を守るのだと言う。自らの右腕を奪われるような痛手ではあるが、他の適任はいないであろうこともわかっていた。
「このような面倒なことをお願いできるのは、あなただけのようだ」
いつも寡黙で実直な男が、その時、穏やかに微笑う。不器用な男なりの心遣いが嬉しかった。

「それでは」
と、田中を中心に侍従たちが淡々と史郎の荷物を積み込む。
続けて、朋子らの荷物を積み込もうというその時、園子が慌てた様子で声を上げた。

「ねえ、新一君、少しくらいなら待って貰える?」
「今すぐにでも出発したいところなんだが、そうだなぁ、十五分が限界だろうな」
「それだけあれば充分だわ。ありがとう! それじゃあ!!」
と、園子はいきなり蘭の右手を取った。
蘭は訳が分からないまま、自分たちが乗ってきた馬車に、園子によって押し込められた。

数分後、馬車から出てきた二人の服は入れ替わっていた。

馬車のドアを閉めるや否や、園子は蘭の両手を取り、そのまま押し倒すかのような勢いで言った。
「私の服とあなたの服を今すぐ交換して!」
「いきなり、何を言い出すの、園子? そもそも園子のそのドレスと私のこの服とは、価値が違い過ぎるじゃない! それなのに交換だなんて」
「誤解しないでね。私は蘭の服のデザインとか裁縫とか、いつも感心していたし、いつか、作り方を含めて教えて貰おうと、前々から思っていたの。これ、本当よ! こんな事態になって、しばらくこの望みは叶えられそうになくなっちゃったから、せめてお手本に、その服を譲って貰いたいの。蘭は今、価値が違うとか言ったよね? 確かに、この服はあなたと初めて会った時に着ていた大切なものではあるけど、今の私にとっては、蘭のその服の方が価値があるの。お願いだから蘭、私の服と交換して!」

園子の思いは、その必死な形相からも十分に伝わった。しかし、見るからに自分のものより高価なドレスとの交換だなんて、どうしても躊躇わずにはいられなかった。
だが、蘭の困惑とは裏腹に、園子は自らの服を脱ぎ始めてしまう。
園子の強い思いを目の当たりにし、蘭も覚悟を決めた。

思いがけない二人の姿に、その場にいた誰もが戸惑った。史郎は思わず娘を問い質そうとしたが、目の前の二人の姿に言葉を飲み込んだ。二人とも何を語るでもなく、互いに大粒の涙を零しながら、ただ強く抱き締め合っていた。

「京極!」
と、暫しの沈黙を打ち破ったのは新一だった。

京極は新一の元に歩み寄り、本能的に膝を正した。
「鈴木卿とご家族の皆様を、あなたの故郷まで無事に送り届けるよう、お願いしたい」
「お言葉ですが、新一様、私はあなたをお守りするお役目を仰せつかっている身ですし、このような情勢の中、お側を離れる訳には……」

「これは主命である!」
それまでのどの言葉よりも強い新一の口調に、その場にした誰もが目を見張った。
京極もまた、新一が初めて見せると言ってもいい、抗いがたい気迫に、それ以上の言葉を失った。

「鈴木卿はいずれこの国にとって大きな役割を果たしてくれるであろう、大切な逸材だ。それに、園子は蘭の親友なんだ。彼女を守って欲しい」

京極にとって新一は、仮初めではあるが、命を賭して守りたいと日に日に思わせる、魅力的な主だった。
いつかの新一の言葉を思い出す。

『天使の笑顔を守りたい』

今、新一は彼の願いの一端を自分に任せようとしていることを知り、自分がなすべきことは、この思いに報いることだと思い至った。

「承知致しました。私がこの命に代えましても、鈴木家の皆様を無事に寝屋川までお送り致します」
「命に代えられると、お前の本来の主に申し訳が立たなくなるからなぁ……」
と新一は苦笑する。
どんな時でもこうして余裕を窺わせる、新一の上に立つ者としての意志の強さが、京極は好きだった。

「生意気なお願いを致しますが……」
京極が遠慮がちに口を開く。
「またいつか、手合わせを願えますでしょうか?」

新一は一瞬、驚く様子を見せたが、すぐにいつもの穏やかな笑みに変わった。
「そうだな、今度はもう少し対等にやりあえるように、俺も鍛えておかないとな」
いつも無表情な京極が、ホッとしたように薄く笑む。
そして、深々と頭を下げた。

「このような訳ですので、この男も皆様の護衛と寝屋川への案内係として同行させますが、宜しいでしょうか? 人となりは僕が保証しますので」
「工藤君と言ったね? 君にそこまでして貰う訳には……。それに……」
そこまで言うと、史郎は一呼吸置く。そして、意を決するかのように姿勢を正し、新一を真正面に捉えた。
「それに、この国で工藤と言えば……」

新一はそれ以上の史郎の言葉を制するように、すっと右の掌を上げた。
「決して多くはありませんが、だからと言って、そう珍しくは無い名前のはずですが?」
穏やかに微笑むその瞳に、一点の曇りもない。だがそれでいて、有無を言わさぬ凄味があった。

史郎は悟った。

「これまでの園子への配慮と、この度の私どもへの数々のご厚情を、心より感謝致します」
史郎は深々と頭を下げる。
朋子と綾子もまた、つられる様に頭を下げた。

園子は最後に今一度、強く抱き締めてから、蘭を開放する。
そして、新一の元へと歩み寄ると、やはり深く頭を下げた。
「あなたには助けて貰ってばかりで、それなのに、私は憎まれ口を叩いたりもして、今もあなたにお願いしようだなんて、どんなにあつかましいかってことは、自分でもよくわかってる。でも、言わせて。どうかお願い、私の大切な親友を守って! 私の大好きな蘭の笑顔を守り抜いて!」

園子が頭を上げるのを待って、新一は大きく頷き、答えた。
「ああ、任せておけ。それに、これを今生の別れにするつもりもない。だから、オメーも笑顔を絶やさないようにな」
「うん!」
園子は大粒の涙を零しながら頷く。そして、
「じゃあね、蘭!」
と、泣き笑いで親友に手を振り、
「うん、またね、園子!」」
と、蘭も懸命に笑顔を繕って、大きく手を振り返した。

「では、頼んだぞ! 京極!」
「は! 新一様もどうかご無事で!」

間もなくして、数台の馬車が人知れず南の城門を抜け、王都米花を後にした。

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