谷内はいつもと同じように教会内の清掃を一通り終わらせると、一息つくために台所に向かい、ハーブティーを淹れた。窓から射し込む日脚は昼下がりの頃合いを示していた。
若い身空で教会を預かる新出や、医者の助手として申し分のない志保とは違い、自分には掃除などの雑用しか出来ずにいる。あの大渡間監獄襲撃の時に、自分と同じように大怪我を負った河野は、怪我の完治を待たずして村に戻り、手入れが行き届かず雑草に埋もれようとしていた土地を、元の実り豊かな畑に戻すべく農作業を再開させていた。
焦りが無いわけではない。
相変わらず左足を引き摺ってはいるが、痛みはもうほとんど残っていない。これ以上、この教会に居続けるべきではないと頭ではわかっているのだが、居心地の良さに甘え、つい今日まで過ごしてしまった。
あれから、十年近くになるのだろうか?
谷内は盛大に溜め息を落とした。
大渡間にあった教会が主である司祭の高齢を理由に閉鎖することになり、大渡間からさほど離れていなかったこの教会に出入りするようになったのは、自然の成り行きだったと言えるだろう。
当時は、先代の新出夫妻が切り盛りしていて、大渡間監獄もまだまともだった。
夫妻はお世辞にも愛想が良いとは言えなかったが、夫人がブレンドするハーブティーが絶品で、その味を求めて通っていたと言っても過言ではない。夫妻は数年前に相次いで亡くなってしまったが、特製のハーブティーは息子にしっかりと受け継がれていた。
今朝早くに教会を訪れた山口は興奮気味に今日の国民議会について、そして、この国の未来について熱く語っていた。教会を一歩外に出れば、街中至る所で山口と同じように希望に満ちた目で、誰もが熱弁を振るっているのだろう。
谷内はそんな彼らの姿がなぜだか、うたかたなもののように思えて仕方が無かった。少し温くなったハーブティーを口に含む。そのほろ苦さは、谷内の心の内を表しているかのように思えた。
不意に台所奥に裏口辺りが騒がしくなった。そろそろと外側に向かってドアが開かれようとしていた。すぐさま腰を上げ、身構えた谷内であったが、ドア向こうに立つ人物の姿を認めて、小さく安堵の溜め息を零した。
「なーんだ。新一に、蘭ちゃんじゃねーか」
谷内はどかっと腰を下ろし、苦笑を浮かべる。この時はまだ、その差異に気付けずにいた。
「何かあったの?」
台所での異変に気付き、駆け付けた志保の目に飛び込んできたものは、緊張した面持ちの新一と、反対にまるでその表情に色を見せない蘭の姿だった。
「蘭さん、その姿は一体?」
志保は困惑していた。こんなに無表情な蘭の姿を見たことが無かったし、その出で立ちが更なる混乱を招いた。まるでその表情とは釣り合わない、淡いピンクのドレス姿が。
志保の問いかけに蘭は微動だにせず、代わりに言葉を口にしたは新一だった。
「山口さんは来ていない?」
「え、ええ……、朝早くに訪れたきりだけど……」
「そうか……」
新一は小さく息を吐き出すと、手近にあった椅子に蘭を座らせた。
新出が遅れて台所にやってきた。
「その様子だと、何かあったようですね?」
新一は静かに頷いてみせた。
「谷内さん、すみませんが、そのお茶をもう一杯淹れて頂けませんか?」
「お、おう……」
谷内は慌てて新たなカップを取り出し、ポットのハーブティーを注ぐ。もう温くなっているだろうが、と断りながら、カップを新一に手渡した。
新一はそのカップを蘭の手の中に収めた。
「蘭、ほら。大丈夫だから」
蘭は力なく頷くと、無表情のままカップを口に運んだ。間もなくして、その瞳から大粒の涙が一筋こぼれた。
新一はその涙を右手でそっと拭うと、混乱する三人の方に向き直った。
「つい三時間ほど前のことです。司教の一人が暗殺されました」
「え!?」
と、三人の声が重なった。
「その反応からすると、まだ騒動は米花中に広がっていないようだな」
新一は独りごちるように言った。
予想だにしなかった報告に三人は反応できず、固唾を飲むようにして、新一の次の言葉を待った。
「その直後、今度は鈴木卿一家が何者かによって襲撃されました」
「襲撃って、まさかその!?」
いつも穏やかな口調である新出だが、この時ばかりはその言葉に焦りの色が強くなった。
新一は薄く微笑みを返す。
「どうにかこうにか襲撃犯は退けましたが……」
三人が安堵の溜め息をつくのも束の間のことだった。
「それで、襲撃がまた無いとは限らないし、鈴木卿にはこの機会に家族と共に、西国の寝屋川まで避難してもらい、その護衛と道案内を兼ねて、京極を同行させました」
「ちょっと待って!」
と、志保が我に返ったように声を荒げた。
「京極さんを寝屋川に返したってことは、貴方の護衛は? ただでさえ、周囲の反対を押し切って護衛を京極さん一人だけにしたというのに、その京極さんを手放すだなんて、貴方っていう人は、一体、何を考えているの?」
志保の言葉には、明らかに怒気が含まれていた。
「それだけ大事な人たちだと判断してのことだ」
と、新一の言葉は素っ気ない。
「そもそも、最近は俺の側にずっといたというわけでもなかっただろうが?」
「それは、そう、だけど……」
「それに、俺に考えが無いわけでもない」
「え?」
「俺だって、自分一人でできることなんて限られていることくらいはわかっている。いくら城を追い出されているからって、一時の気まぐれでみすみす自分の命を危険に晒すような愚か者じゃないってことだ」
口調は砕けてはいたが、新一の表情はいつにも増して真剣なものだった。
志保は小さく溜め息をつく。
「まったく、貴方って人は……」
志保の主はいつだってそうだ。いつだって勝手に、こうして自らの命の危険に関わるような大事なことですら、たった一人で決めてしまうのだ。
部下たちを信頼していないわけではない。相談するよりも独断する方がいち早く次の事態に備えることができ、その次の選択肢が広がる。部下たちの対応力の高さを知っているからこその独断なのだ。
そういう考えの持ち主だということはわかっているが、自分たちがいつも歯がゆい思いにさせられているのも事実だった。
「まあ、そういうわけだから、これからちょっと出掛けてくる」
言って、新一は席を立つ。隣に座る蘭に視線を向けると、蘭は黙って新一の袖口を掴んだ。
新一は蘭の前にしゃがみ込む。
「誰も蘭の前から消えるわけじゃない。夕方までには戻るから。そしたら、みんなで晩ご飯を食べよう、な?」
乾いた涙の跡を覆い隠すように、右手が蘭の頬にそっと触れた。
赤くなった目で見つめ返すと、蘭は不器用に微笑んで、幼子のようにこくりと頷いた。
「新出先生、谷内さん、蘭のことをお願いします」
と立ち上がった新一は、二人に向き直り、大きく一礼する。
事情が上手く呑み込めないものの、二人は頷き返した。
裏口のドアを半ば開けたところで、新一は振り返る。
「志保、ちょっと」
呼ばれるままに、志保は外に出た。
「悪いが、蘭に服を貸して欲しい」
「それは別に構わないけれど……」
「あれは、蘭のあの服は、園子と交換したものなんだ。詳しい事情は俺にもよくわからないんだが、どうやら、友情の証みたいなものらしい」
「それで、見慣れないドレス姿だったわけね……」
「相当ショックを受けているから、俺が戻るまで、目を離さないでいて欲しい」
「わかったわ」
新一が教会に戻ったのは、街が夕暮れに染まる頃だった。
手ぶらで出掛けたはずのその右手には、大き目のバッグが一つ握られていた。
食堂には出掛ける時と同じ位置に新出と谷内が座り、新一と入れ替わりで教会に駆け込んできた山口の姿もあった。
「騒ぎになって、すぐにお前たちがいるはずの桟敷席に向かったら、すでにもぬけの殻で、心配したんだぞ、新一! でも、まあ、事情を聞いてみれば、しゃーねえけどな」
山口の口調は怒っているかのようでもあったが、その表情には安堵の色が見て取れた。
「ご心配をお掛けして、すみませんでした」
新一は深く頭を下げる。
「一刻を争うような状況だったもので……。それでも、せめて伝言くらいは残すべきでした」
「なーに、みんな無事だったんだろう? ならいいさ!」
山口は微笑んで、それ以上は言うなという風に、右手をひらひらさせた。
台所が賑やかになったことに気付いたのであろう、志保が姿を現した。
「蘭の様子は?」
「貴方が出て行ってから、着替えもせずに、ずっと礼拝堂で祈り続けているわ」
「そうか……」
「どんな事情であれ、大切な人と別れるのは、何よりも辛いことだ……」
呟くように言ったのは、谷内だった。
「残された人間には、祈ることくらいしかできないんだ。気が済むまでっていうのも何だが、今はそっとしておいた方が良いと思う……」
谷内の言葉に新一を含め、その場にいた誰もが頷いた。
新一はそのまま礼拝堂の方を見つめていた。
「ところで、山口さん」
しばらくして、新一は山口らに向き直った。
「議会の方はどうなりましたか? それと、陛下は?」
ああ、山口は姿勢を正した。
「採決されたもののと、継続して議論するものとの仕分けが終わって、あとは宣言をまとめるだけのタイミングで、司祭暗殺の知らせが入ったんだ。と言っても、壇上のごく一部の人間にしか知らされなかったんだけどな。陛下の表情が一瞬にして曇ったから、よっぽどのことがあったに違いない、とは思ったよ」
そこまで言って、山口は一度、大きく息を吐き出した。
「で、その直後、議長が審議の中止と、議会の無期限延期を宣言したものだから、場内は大混乱。その上、これまでの採決事案も当分は無効である、とまで言ってのけた。それはもう、怒声やら罵声やらで、ホント、凄かったぞ」
山口は力無く微笑う。
「俺はそれでも前の方にいたからさ、暗殺のこともすぐに伝わってきたし、緊急事態だってこともわかったからな。少しの間、ぼーとしてしまったが、お前たちのことを思い出して、急いで二階に向かったわけだが……」
新一は微苦笑を返す。
「桟敷席から壇上を見た時には、陛下はすでに退席された後だったよ」
「そうでしたか……」
「俺はたまたま前の方にいたから事情はわかったけど、劇場の後ろの方にいた単なる傍聴人なんかは、何が起きたのか、わからなかったと思うぞ? 紆余曲折を経て、ようやく自分たちの暮らしが良くなるための第一歩を踏み出せるに違いない、と思っていたのに、いきなり理由もわからないまま、ハシゴを外されたようなものだろうよ」
他人事のように言った山口の表情にも、悔しさは滲み出ていた。
「世の中、そんなに何でも上手く行かねぇってことだろう」
そう呟いた谷内の表情には、諦めにも似た色が浮かんでいた。
そのまましばらく沈黙が続いた。
窓の外に目をやると、すっかり日が暮れていた。
一人物思いに沈んでいた新一は、思い出したように立ち上がった。
「新出先生、急で申し訳ありませんが、少しの間、蘭と二人、ここに泊めさせていただけませんか?」
新出は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「ええ、もちろん構いませんよ。部屋もそのままにしたありますし、どうぞ、お気兼ねなく」
「ありがとうございます」
新一は深く頭を下げる。
「蘭の様子を見に行ってきます」
と、改めて山口らに一礼すると、荷物を手に台所を後にした。
礼拝堂の中は、まるで時の流れが止まったかのような静寂に包まれ、清澄な空気だけがごく緩やかに流れていた。
最前列で一人、蘭はドレス姿のまま祈りを捧げていた。
新一の足音だけが礼拝堂内に響く。蘭はそのまま微動だにしなかった。
「蘭?」
新一の呼び掛けに反応は無い。一度大きく深呼吸をして、新一は改めて声を掛けた。
「すまない、蘭」
新一の言葉で、ようやく蘭は我に返る。ややあって、ゆっくりと振り返り、見つめ返したその瞳には、大粒の涙が湛えられていた。
「どうして?」
「蘭?」
「どうして、新一が謝るの?」
「理由はどうであれ、蘭につらい思いをさせたから……」
「でも、それは新一のせいではないでしょ?」
蘭の声音に新一を責めるようなものは無い。
むしろ、ゆっくりと穏やかな声で、それが却って蘭の行き場の無い哀しみや憂いを表しているようだった。
新一は返す言葉を探しあぐねていた。
「謝らなくてはならないのは、きっと私の方なのにね……」
蘭の言葉は自分に言い聞かせるかのようだった。
「蘭……」
「新一やこの教会の皆さんにもすごく心配をかけて、気も遣わせてしまって。私がここで落ち込んでいたり、悲しんでいたりしても、何の解決にもならないのにね……」
蘭は困ったように微笑う。
「頭ではわかっていたはずなの。園子たちのことを考えれば、安全な場所に避難すべきだってことくらいは。それなのに、受け入れ難くて、ただ悲しくて……。どんなに子供っぽい悪あがきだとわかっていてもね。それほど長い付き合いではなかったかもしれないけれど、かけがえのない存在だったから……」
「わかっているよ、蘭。みんなわかってる」
新一は蘭の前で膝を折り、その肩にそっと右手を置いた。
「本当に悲しい時には、うんと悲しまなくちゃダメなんだ。涙にいろんな思いを乗せて、流してしまわないとな。そうしないと、次の一歩を前に踏み出せないだろ?」
「うん」
新一は左手のバッグを差し出す。それは、いつ、どんな急な事情でねぐらが変わることになったとしても対応できるようにと、着替えなどの身の回り品を入れたものだった。
蘭は驚きの色を隠せなかった。
「二、三日はここのお世話になる。おかみさんにも新出先生にも了解はもらっているから。蘭もここの方が気心の知れた人も多いし、夜、あのアパートで俺と二人きりでいるよりも、安心じゃないかなと思って。まあ、俺が安心だっていうのもあるんだけど」
新一は照れ笑いを浮かべた。
「宿の方は本当に大丈夫なの?」
「ああ、街は混乱しているし、ここ何日かは常連以外は入れずに様子見だそうだ。だから心配はいらない。人出が欲しくなったら、連絡をくれるようにも言ってあるから」
「そっか。本当にごめんなさい。いろいろと気を遣わせてしまって」
「蘭の方こそ、気にすんなって。そんなことより、そのドレス、園子と再会する時には返すつもりなんだろ? だったら、大事にしまっておかないとな。ということで、着替えたらどうだ? そろそろ夕食の頃合いだろうし」
「うん、そうだね……」
蘭が頷くのを待って、新一は立ち上がった。そのままドアへと向かった歩みを数歩で止めると、振り返ることなく言った。
「前に佐藤さんのを着た時にも思ったけど……、蘭って、ドレスも似合うよな」