25.魔法使い

夕間暮れの月は時に赤く、その色には心を惑わす魔法が秘められているのではないかと疑うことがある。
志保は窓向こうの満月を見つめながら、そんなことを思っていた。

着替えを済ませて食堂に現れた蘭の表情からは哀しみの色が薄れ、どこか吹っ切れた様子だった。
一同を前にして、深々と頭を下げる。
「ご心配をお掛けしまして、すみませんでした」
「謝っていいただくには及びませんよ」
とまず返したのは新出。
「そうそう。今夜は久しぶりにみんなでご飯が食べられるんだからさ」
と人懐っこい笑顔を浮かべたのは谷内だった。
「なあに、ここにいるみんなが無事を祈っているんだ。大丈夫に決まってるさ」
山口の言葉は決して気休めといった色合いはなく、確信に満ちたものだった。
「はい」
蘭はぎこちなく笑って、もう一度、深く頭を下げた。
「本当にありがとうございます」

志保は穏やかな表情でそんなやりとりを見守っていた傍らに座る新一をちらりと見やり、小さく安堵の溜め息を零した。

この日の夕食を用意したのは、山口と谷内だった。
いつものように志保が台所に立とうとしたのだが、この二人が断固として台所への立ち入りを拒んだのだ。
料理は旬の根菜と鶏肉のグリルに、やはり、旬の野菜の煮込みという、実にシンプルなものだった。

「この時期になると、大渡間の連中は、だいたいこんな感じなんだ」
谷内は照れくさそうに言う。
「この野菜はみんな大渡間産だよ。世の中まあ、いろいろと問題はあるし、悩みの一つも無いような奴なんて、いやしないだろうけどさ、こういう時こそ、大地の恵みに感謝しないとは」
「私よりよっぽど、聖職者に向いているかもしれませんね」
新出の言葉に、山口は苦笑することで返した。

「そう言えば……」
新一が何かを思い出したように言う。
「俺たち、朝食べたきりだったよな?」
蘭の目が見開かれる。
「言われてみれば、確かに……」
二人は互いに苦笑する。
「そんなこと言うから、凄くお腹が空いてきちゃったじゃない!」
蘭が照れたように笑う。それは半日ぶりの笑顔だった。

この日の夕食は、街の、国の喧騒をよそに、実に和やかな雰囲気の中で時間が過ぎた。

心ばかりの晩餐の後、蘭はかつて新一が京極と使っていた部屋にいた。
以前のように、志保との相部屋でも良かったのだが、自らの意思で新一の部屋を選んでいた。

蘭が寝間着に着替えを済ます頃合いを見計らって、新一は部屋に戻ってくる。
その手には、二つのカップが載せられた小さなトレーが握られていた。
カップの一方が蘭に差し出される。
「ありがとう」
湯気が揺らぐそれは深い紅色で、一口含むとほろ苦く、優しい甘さだった。
「ホットワインだよ。これならぐっすり眠れるんじゃないかと思って」
一方のベッドに腰かけていた蘭に向かい合うように、新一はもう一方のベッドに座った。
「疲れたよな?」
「うん。でもきっと、園子たちの方が、ずっと大変だと思うから」
「そうだな……」
そのまま二人は言葉を失った。

「心配するなとは言わないけど……」
しばらく経って、新一が声を落とした。
「鈴木卿を襲った奴らにしてみれば、襲撃が失敗することについては、事前に予想できたかもしれないが、襲撃直後に国外逃亡することまでは想像できなかったはず。ましてや、縁ある隣国の賢橋公国ではなく、遠く離れた西の寝屋川だなんて、思いつくはずもないし、遅れて、追っ手を出すとも思えない。時間的にも人員的にもロスが多過ぎる。ここまでの理由だけでも充分に安全だと判断できると思うが、より万全とするために、京極を同行させたんだ。あの男なら故郷の寝屋川はもちろんのこと、道中の土地勘もある。そして、何よりもあの実力だ。だから、蘭にも無事の到着を知らせる報告を、信じて待って欲しいんだ。

まただ、と蘭は思った。
また新一は、不安を打ち払ってくれる魔法をかけたのだ、と。
蘭はゆっくりと大きく頷く。
「うん、信じてみる。ありがとう」
蘭の返事に、新一は柔らかな笑みを浮かべた。

少しの沈黙の後、新一が遠慮がちに口を開いた。
「蘭は寝屋川のこと、どれくらい知ってる?」
「ううん」
蘭は小さく頭を振った。
「国の名前と、西の方にあるってことくらいしか……」
「そうか」
新一は少し言葉を探るようにする。

「元々は、西の大国である大阪に属する小国だったんだが、他の属国とは違い、経済的にも文化的にも特に優れていたものだから、今から二百年ほど前に公国として独立した国でさ」
新一はここで一息つく。

「俺も、去年の今頃のことだが、半年ほど留学してたんだ。あの国は大阪と京都という大国に挟まれていることもあって、昔から人の交流も盛んだし、東都を含む数多くの国に関する歴史的文献が豊富でさ。だから、学者なんかも多かったりする。まあ、俺の場合は歴史を学びに行ったというよりは、もう一つの特徴の方を学ぶためといった目的の方が強かったりするんだけど」
「もう一つの特徴?」
「ああ」
言って、新一はどこか自嘲するかのように微笑った。

「寝屋川は建国以来の永世中立国なんだ。永世中立国ということは、それだけ軍事力に優れているとも言える。寝屋川の場合は、とりわけ剣術だな。稀に、京極みたいに剣術は苦手でも、それ以外で強者というものもいるけど」
「それじゃあ……」
蘭は胸の内にざわめきを覚えながらも、確認せずにはいられなかった。
「新一はその、剣術を学びに?」
「まあ一応は。と言っても、俺も京極と同じで、剣術の方はイマイチだったりするんだが……」

新一は苦笑する。
「何の因果か、貴族の家に生まれたからなぁ、いざという時には、国を守るために命を賭して戦う、といった気位は持ち合わせているつもりでいるんだ……」
蘭の瞳に驚きの色が浮かんだのを見て、新一は穏やかに微笑う。
「その守るべき国というのが漠然としているんだけどさ。そこに住む人々なのか、その生活なのか、長きに渡って作り上げた文化だったりするのか……。王室を含めた貴族だったり、我が物顔の聖職者たちではないのは確かなんだろうけど……」
そこまで言って、新一は小さく溜め息を零した。
蘭は一人混乱し、掛けるべき言葉を見出せずにいた。

「今はだから、国がどうだとか、深く考えずに、まずは目の前にある、自分の大切なものたちを守ろうって思っている。例えば、蘭とか」
「え?」
蘭の目が大きく見開かれる。
新一が得意気に微笑った。
「蘭が心から笑っていれば、それだけ穏やかな生活をしているってことなんだろうし、たまたま出掛けた先で、無邪気に笑っている子供たちがいれば、それもまた、幸せな光景なんだろうなぁって思う。だから、そんな笑顔の一つ一つを守れたらな、と。そのために、時に武力が必要になると言うなら、その時のために、自分を鍛えておく必要もあるだろうと思って留学したわけだけど……。って、すっかり話が脱線してるよな、これじゃあ」
新一が再び苦笑した。
蘭は何も言えず、ただ見つめ返した。

出会ってから半年以上になる。
何がきっかけとなって、こうして同じ部屋で二人きりで過ごすまでに親しくなり、信頼できるようになったのか、蘭自身も覚えていない。ただ、目の前の彼は、父とは違う、他の誰とも違う、不思議な安らぎを与えてくれる人だった。今もまた、自分を守ってくれるのだと言う。

「遠く離れているから、気軽に訪ねて行く、というわけにはさすがにいかないけど、治安も良いし、文化レベルも高い。鈴木家とも少なからず縁のある土地らしいし、一時的な避難場所としては、最適だ場所だと思う」
「そうだね、それなら安心だね……」
ふうと小さく安堵の溜め息を落とす。
不意に、蘭の頬に涙が一筋、零れた。

この日、何度目の涙になるのだろうか?
伸ばされた新一の指先が、優しく涙を拭ってくれる。
「俺は子供の頃から両親とは離れて暮らすことが多くて、だから、家族とか大切な人と離れることに、どこか、麻痺しているところがあって……」

背後から降り注がれる月明かりが邪魔をして、その表情までは窺い知れないけど、きっと、その瞳には罪の色が帯びているのだろう。
決して、新一のせいではなく、責任を感じる必要だなんて、何一つないというのに。
今日もまた、おそらくは、最善の策を施してくれたはずなのだ。
――私のために傷付いてくれているの?
そんな風に考えてしまうのは、自惚れなのだろうか?

――どうして、そこまで気に掛けてくれるのだろう?
本当に今更な疑問ではあるのだが、蘭はそんな新一の心遣いが嬉しかったし、その優しさが本当に心地よく、ありがたくもあった。
――私は、どこまで新一に甘えても良いのだろうか?

不意に浮かんだ疑問を口にしてみた。
「寝屋川って、東都というか、米花に似てたりする?」
上手く笑えているかなんて、自信は無い。相変わらず逆光で、その表情までは見えないけれど、小さな驚きの後、微笑み返してくれたように感じられた。

「どうかな、街に人懐っこい人が多いという点では似ているかもしれないが、ただもっと、あちらは賑やかというか、喧しいというか……」
苦笑に変わったのだろうか?
「そういうところだったら、きっと、園子も好きになると思う。うん。だって、明るくて、楽しいことが好きだもの」
今度は先ほどよりは少しまともに笑えたと思う。
新一の側からは、蘭の表情は良く見えているはずだ。
月光は案外と明るいものだから。

蘭は自分の頬が紅潮していくのを自覚していた。
「あのね、もし新一さえ迷惑じゃなかったらの話なんだけど……」
「蘭?」
「えーっと、今夜だけ、この部屋で過ごしてもいい?」
声が少し震えているのが自分でもわかる。
心音が新一にも聞こえてしまうのでは、と思われるくらいに、強く鼓動していた。

ややあって、新一は小さく溜め息を零すと、音もなく立ちあがり、蘭の右隣りへと座り直した。
今度はその表情がはっきりとわかる。
新一は珍しくどこか緊張しているようで、少し伏し目がちに言葉を発した。
「人は生きている限り、どんなに離れていようとも、どんなに異なった環境に置かれようとも、同じ空の下で生きているんだ」
落ち着き払ったその声に、蘭は思わず新一を顔を凝視した。
新一の言葉に、かつての母の声が重なった。

新一は再び小さく息を吐き出した。
「だけれども、俺は蘭の側を離れるつもりはない。蘭が拒まない限りは……」
言って、新一は少しだけ腰を浮かすと、右手で蘭の前髪をかき上げ、その額にそっと触れるだけの口付を落とした。
「ちょっとした、おまじない」
それだけ言うと、きょとんとする蘭に、悪戯っ子のように笑った。
「蘭が俺の側の方がよく眠れるというのなら、いつまでだって、いてくれて構わない」
言った新一の頬が、少し赤くなったように見えた。
「ありがとう。今夜だけ、甘えさせて」
その表情を確認するのが何だか怖くて、それ以上に自分の表情を見られるのが怖くて、蘭は新一の肩口にそっと額を埋めた。

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