頬に触れる冷たい空気に、蘭は目を覚ました。窓の外を望むと、東の空が薄っすら明るくなり始めていた。
耳に届く音は、頭のすぐ上から聞こえてくる、新一の規則正しい寝息だけで。人肌の温もりに包まれて一夜を過ごしたのは、いつ以来になるのだろうか? その穏やかな寝顔に、蘭は自らの顔が紅潮するのを意識せずにはいられなかった。
どうやら、このまま二度寝するのは難しいようだ。そろそろとベッドを抜け出すと、着替えを手にし、忍び足で隣りの空き部屋に潜り込んだ。そこで着替えを済ますと、礼拝堂へと向かい、園子たちの無事を一人祈った。
昨日はどれだけ祈っても不安で不安で仕方が無かったのだが、今朝はきっと大丈夫に違いないと思えるように変わった。親友たちの無事を確信している人たちがここにはいて、彼らのおかげで蘭もまた信じられるようになったのだ。
しばらく礼拝堂で祈りの時間を過ごして後、しじまの中を台所へと向かい、朝食の準備に取り掛かった。
食卓に朝日が降り注がれる頃になって、一人、また一人と台所に集まってくる。食卓には、蘭の手によって用意された朝食が、昨夜、蘭たちと同様に泊まった山口を含めた人数分並べられていた。
彼らが椅子に座る度に、何かしらの感嘆の声が上がった。豪華とは言えないが、素人目にもバランスの良さがわかる、彩りの良い、それなりに手の掛った料理の数々だった。
最後に姿を見せたのは、新一だった。
蘭は照れ臭さを心の内に留め、微笑む。
「おはよう、新一」
「おはよう」
いつもと変わらない様子に、ほっと胸を撫で下ろした。
全員が着席したところで、蘭は一人、その場に立ち上がった。
「改めまして、昨日は皆さんにご心配をお掛けしまして、すみませんでした」
蘭はそこで深く頭を下げる。間もなくして姿勢を正し、曇りのない笑顔を浮かべ、言葉を続けた。
「そのお詫びと言ってはなんですが、私なりに感謝の気持ちを込めて、朝食を用意させてもらいました」
そこまで言うと、着席し、今度は照れ臭そうに笑った。
「朝からこんなに豪華な料理を出されちゃったら、俺たちは今日一日、どれだけ頑張らなきゃならないんだ?」
言って、悪戯っ子のような笑みを浮かべたのは山口だった。
谷内は苦笑する。
「何だか、夕べの俺たちの料理がみすぼらしく思えちゃうよな……」
「そんなことないですよ。とっても美味しかったですし」
蘭は新出や志保に同意を求めるように視線を向けた。二人が頷くのを確認して、隣りに座る新一に向き直る。
「だよね?」
「ああ」
穏やかに微笑む新一に満面の笑みを返し、蘭は改めて山口と谷内に向き直った。
「それに、とっても優しい味で、嬉しかったですよ」
蘭の料理は見た目だけでなく、味も確かなもので、誰もが食後も和やかな余韻にしばし浸っていた。
教会の外が賑やかになる頃になって、山口が大渡間に戻っていった。
次いで、新一が一人、街の様子を見てくるとだけ告げて、教会を後にした。
前日とは打って変わり、蘭は笑顔で、気をつけてね、の一言を添えて、新一を送り出した。
その新一が戻ったのは、昼下がりをも過ぎた頃だった。誰からともなく、食堂に人が集まってくる。蘭が用意したお茶が行き届くのを待って、新一が報告を始めた。
「殺害されたのは司教一人だけらしい。だが、襲われた貴族や有力者と呼ばれる人たちは、鈴木卿以外にも複数いたようですね」
え?と驚きの声が上がったのは、一人や二人では無かった。
「実際に、姿が消えてしまった人物もいるという話を聞きました」
「それはその、拉致された、といったようなことでしょうか?」
恐る恐るといった様子で質問したのは、新出だった。
「おそらくは、そういうことなのでしょう……」
新一は曖昧に答える。
「襲われた人たちの共通点もわからない?」
「ああ、今のところはな……」
蘭の問い掛けには、どこか含みのある答え方だった。
「新一?」
「どうやら、蘭の目は誤魔化せそうにないらしい」
新一は苦笑する。
「そもそも、鈴木卿は他の貴族たちと比べると、かなり異質な存在なんだ」
「それは、前に話してくれた、いろいろな権利を放棄しているということ、とか?」
「それもある。そうだなあ、例えば、慈善事業の取り組み方なんかは、わかりやすいかもしれない。慈善事業は、別に鈴木卿に限ったことではありませんよね? なのに、鈴木卿のそれと、他の貴族のそれとは大きな違いがある。どなたかわかりますか?」
「いきなり、そんなことを聞かれてもなあ……」
谷内は心底困ったといった様子で声を上げた。蘭と新出の顔にも困惑の色が見え、志保は無表情のままだった。
新一は小さく息を吐き出す。
「鈴木卿の場合は、その目的は基本的に援助する相手との共存共栄を目指しているんです。それに対して、他の貴族たちは、自分に向けられる妬みや恨みの感情を和らげるため、すなわち、自己保身のためといった場合が実に多い」
なるほど、と小さく呟いたのは新出だった。
「もちろん、逆恨みといった可能性も否定できないし、嫉妬する人間もいなくは無いでしょう。従来型の貴族にとっては、目の上のたんこぶように思っている者も少なくないと思います。だからいって、他の襲撃された貴族たちと鈴木卿とを同列に扱うことには、どうしても抵抗があるんです。単純に、活動資金を得るためというような目的だったら、まだ納得できそうですが、そう単純なものとも思えない。伝え聞いた限りではあるけど、事件数が多過ぎるんです」
「同時に複数箇所で事件を起こすってことは、当然、それだけの人数や資金も必要なはずよね?」
今度は志保が口を開いた。
「その通りなんだ……」
新一は苦々しい様子で言葉を続けた。
「同じ日に、同じような犯行が何か所にも渡って起きているからには、少なくとも、犯行グループ間で事前の打ち合わせがなされたはずなんだ。問題は、彼らだけに因る犯行なのか、更にその上に黒幕的な存在がいるのかということなんだが……。今回の国民議会に対して、否定的な立場の人間は少なくないはずだが、ここまでしなくてはならないような人間が、どれほどいるというのだろう? 疑心暗鬼に囚われている者も、中にはいるのかもしれない。だが……。いずれにしても、情報が不足しているこの段階で憶測で語り合ったところで、あまり意味のあることとも思えない……」
暮れ方になって、教会に一人の男が新一を訪ねてやって来た。
伝言や手紙を渡して欲しいといったような用件での訪問者はこれまでにもいたが、新一への面会を求めてきた者は初めてだった。タイミングがタイミングなだけに、応対に出た谷内は、否応なく緊張し、警戒せずにはいられなかった。それ故、背後から近づいてくる足音に気付けずにいた。
「どうして? どうして、貴方がここに?」
声の主は、志保だった。
男はわずかに目を見開いたが、落ち着いた口調で答えた。
「志保さんでしたね。大変、ご無沙汰をしておりました。今更会わせる顔など無いことは重々承知しておりましたが、今日は新一様に請われて参りました」
男は自嘲するかのように、僅かに口元を緩ませた。
身の丈は京極と同じくらいだろうか? 京極よりは幾分穏やかに見えるが、この男もまた、武人の空気を纏っているように、谷内の目には映った。
「とりあえず、志保ちゃんとも知り合いのようだし、こんなところで立ち話もなんだから、中に入ってもらったらどうだい?」
谷内に言われ、志保はようやく我に返った。
三者三様に困惑の色を隠せぬまま、教会の奥へと向かう。途中、礼拝堂の前で蘭と鉢合わせた。
見知らぬ男の存在に警戒の色を濃くする蘭に、志保は言う。
「新一様に台所まで来るように伝えてもらえるかしら?」
蘭は図書館へと向かった。目的の人物は、一人静かに窓際の壁に背中を預け、窓の外をただ眺めていた。
「えーと、新一にお客様みたいなんだけど……」
新一は僅かに目を見張り、良かったと小さく呟く。そして、蘭に微笑み返し、言った。
「蘭にも紹介したい」
戸惑いを隠せないまま、蘭は新一の後に従った。
辿り着いた台所には志保と、先ほどの男が座っていた。
「とりあえず、新出先生と谷内さんには席を外してもらったのだけど……」
志保が言うと、新一は黙って頷いた。
「こんなに早く来てもらえるとは思っていませんでした」
新一は朗らかな顔つきで言う。
声を掛けられた方は、困ったように微笑った。
「貴方の要請を断ることなんて、私にできるはずがありません」
実に、五年ぶりの再会だった。
昨日の夕方、突然訪ねてきた男は、かつての主であり、自分にとって唯一の弟子だった。最後に彼と会った時はまだ少年と呼ぶべき年齢で、実際、幼げな表情を見せるようなこともあったが、再会した彼からは、少年らしさはまだ垣間見ることができるものの、青年へと大きく変わろうとしていた。あの頃はせいぜい自分の肩口ほどでしかなかった身長も、目線をそれほど下げずに済むほどに成長し、変声期ならではだった声音も、落ち着きのあるテノールへと変わっていた。
そして、何よりもの変化は、人の上に立つ者に相応しい、主たる威厳を纏っていたことだ。もう二度と、その場所に戻れる謂われなど無いと思っていたはずなのに、その申し出を、どうしても断ることは出来なかった。
「志保のことは覚えていますね?」
新一の声は落ち着いたものだった。
「はい」
では、と新一は背後に控えていた蘭の名前を呼び、一歩前に出るよう促した。
「彼女の名前は毛利蘭。いろいろあって、今は僕たちと一緒に行動して貰っています」
「あの、初めまして、毛利蘭です」
蘭は畏まった様子で一礼した。
「私は前田聡と言います」
つられる様にして名を名乗り、前田はその場で立ち上がり、軽く頭を下げた。
年の頃は新一や志保と同じくらいだろうか? 健康的でありながら女性らしさも兼ね備え、緊張した面持ちの中にも芯の強さを窺わせており、肌の白さと長い黒髪との対比が特に印象的だと、前田は思った。前田が記憶している限りでは、かつて新一の側では見たことのないタイプの女性に見えた。
新一に促されて、蘭は新一の左隣に座る。いつの間にか四人分のお茶を用意していた志保がそれぞれに配り終えると、蘭の正面に座った。
全員が席で落ち着くのを待って、新一は口を開いた。
「前田さんは、わかりやすく言えば、僕の師匠ってとこかな?」
「師匠?」
「ああ。十年前に師となり、五年前に訳あって僕の元を離れるまでに、軍人としての工藤新一の基礎を作り上げた恩師なんだ」
前田は改めて、その場で一礼した。
「あ、そうそう」
新一は何かを思い出したように微笑う。
「前田さん、蘭はこう見えて、護身術に長けていて、それも軍式とほぼ同じやつだったりするから、見た目に騙されて油断してると、前田さんでも危ないと思うよ」
「ちょ、ちょっと新一! そんな誤解を招くような言い方しないでよ!」
「誤解も何も、その実力は俺も京極も認めているし。今だから言うが、京極も蘭の相手はやり辛かったと話してたぞ?」
新一の言葉に、蘭の目が見開かれる。直後、その顔色が一気に赤く染まった。
「とは言え、別に蘭のその力を当てにするつもりも無いけどさ」
言って新一は、まるで幼子をあやすかのように笑った。
そんな二人の気安い様子のやりとりを、前田は不思議な思いで見入っていた。
前田の記憶している新一は、人当たりは良くはあったが、決して誰彼と簡単に心を許すような人間ではなかった。二人が出会ったのは、前田が二十歳、新一が七歳の時であったが、新一が心を開くようになるまでには、数年を要したのだ。
この五年の間に、彼の身に何が起こり、どう変わったのだろうか?
そんなことを考えていると、右隣からごく小さな声が聞こえた。
「彼女だけよ」
自分はそんなに惑うような表情をしていたのだろうか? 驚いて、視線を向けると、志保はただ苦笑を返した。
そうだった。
彼はもう前田の知る少年ではなく、青年へと足を踏み入れた一人の男で、自分が守るべき相手を見つけていたとしても、おかしくはない年齢なのだ。
おそらく貴族階級の娘では無いのだろう。市井でその相手を見つけたであろうことは驚くべきことだが、自分自身もそうであったことを思えば、それほど不思議なことでも無いのかもしれない。
「ところで、まさか、前田さんに京極さんの代わりをさせようだなんて、思っていないわよね?」
その場の雰囲気を変えたのは、志保のひどく冷淡な声だった。
「そのまさか、だが?」
返した新一の声は、反対に、実に穏やかなものだった。
「前田さん以上の強者がいると言うのなら、逆に教えてもらいたいものだ」
言って新一は微笑い、志保は憮然とした。
確かに、前田以上の実力者を、志保は知らない。
だがしかし、彼が新一の元を離れたのには、それなりに理由があったのだ。
「私の過去の件についてでしたら……」
「何も言う必要はありません。僕が前田さんに必要です、とお願いしたのですから」
新一の言葉には、有無を言わせぬ力強さがあった。
「昨日、五年ぶりに会って、師弟とか主従とかそういった関係を取っ払い、お互い腹を割って話してみて、それで俺が決めたんだ。前田さんなら、充分に信頼できると。今は潮目が変わろうとしている時だ。そんな時だからこそ、確実に力になってくれる人間が必要なんだ」
「貴方がそこまで言うのなら、私も、これ以上は何も言わないけど……」
志保は不承不承といった様子で頷いた。
蘭は一人、居心地の悪さを感じていた。
新出や谷内と同じように、自分の席を外すべきだったのでは無いのだろうか?
「蘭もだよ」
「え?」
「蘭も必要な人間だから、この場にいてもらってるんだ」
まるで蘭の考えを見透かしていたかのようなタイミングでの新一の言葉だった。
そう言った新一の表情はとても穏やかで、落ち着いたその声音は、蘭を襲った不安を拭い去るのに充分な魔法だった。