静かな昼下がりだった。
昼食後、志保は一人、あてがわれている部屋に籠り、読むともなしに医学書のページを捲っていた。
季節は急速に晩秋へと移り変わり、窓からの陽射しが部屋の奥まで射し込んでいた。
この日の朝、新一と蘭はアパートへと戻った。
教会には今、責任者である新出の他に、志保と谷内、そして、二日前に突然現れた前田の四人が残っている。前田は新一から教会の警護を命じられていた。
志保は前田に対して、あまり快くは思っていない。それは、彼が主である新一の元を去るきっかけとなった、五年前の事件に因るものが大きい。前田の婚約者が起こした殺人事件である。
前田は新一が特に信頼を置く部下の一人であった。にも関わらず、前田は罪を犯した彼女を庇うような真似をし、結果として、事件の解決を遅らせることとなり、その責任を取る形で職を辞したのだ。
当時の志保には、迷う様子を見せることも無く、主よりも婚約者を選んだ前田に対して、不信感しか抱けずにいた。そして、今もその思いが消え去ったわけではなかった。
部屋に一人戻る前、その前田と二人きりとなった機会を利用し、話をした。志保には、確認しておきたいことがあったのだ。
志保は努めて冷静を装い、問い掛けた。
「確か……、明子さんと言ったかしら? 彼女の名前」
予想外の質問だったのだろう。前田の目が大きく見開かれる。僅かな沈黙の後、はい、とだけ言葉を返した。
「彼女はいつ頃戻る予定?」
「この一年以内だとは言われています」
前田の表情には困惑の色が浮かんでいた。
「そう」
志保は小さく息を吐き出す。
「もし、この先……、新一様と明子さんのどちらか一方を選ばなくてはならない状況となった時、あなたはどちらを選ぶのかしら?」
前田は瞬き、ややあって苦笑した。
「新一様と同じことを聞くんですね?」
え?と、今度は志保が困惑の色を見せた。
「どういった状況下に因っても違ってくるとは思いますが、と前置きした上で私がお答えしたのは……」
前田が微苦笑する。
「おそらくは、彼女を選ぶでしょう、と。僕くらいは、彼女の味方でいてあげたいので、と申し上げました」
言って、前田は穏やかに微笑った。
その笑みを見て、志保はこの男が時に朗らかに笑い、時に冗談を言うような、常に寡黙だった京極とはまるで違うタイプの武人であったことを思い出した。
そして、かつてその心に余裕のある様を、好ましく思っていたことも――
志保は改めてため息を零した。
しばしの間、二人の間に沈黙の時間が流れた。
「それで? その答えに対して、新一様は何と?」
「新一様はこうおっしゃいました。『もし、迷うことなく僕の名前を言っていたら、今回の話は無かったことにしたと思いますよ』と」
志保は今度は盛大にため息を落とした。
「あの人らしいわね……」
二人の会話は、それきりで終った。
志保は手にしていた医学書を傍らに置くと、窓を開け、外の空気を思い切り吸い込んだ。
誰かのために自らを犠牲にしようとする気持ちは、志保にだってわからなくはない。幼い頃に家族を亡くした志保を引き取ってくれた阿笠に対しては、今となっては家族以上の思いがあるし、姉弟のようにして育てられた新一に対しても、忠義心とは別の思いがある。彼らのためなら、何だってできるだろう。
それでも、前田に対しては、未だに納得できないでいる自分がいる。おそらくは、信頼できる相手だと思っていたのに、裏切られてしまったという思いが強いのであろう。要するに、自分は未だに考え方が駄々をこねてる子供と同じなのだ。
そんなことを思っていると、扉をノックする音が聞こえてくる。
はい、とだけ応答すると、
「新出先生がお呼びです」
と、その前田の声が扉の向こうから届いた。
「どうやら、新一様から火急の連絡があったようです」
「わかったわ。すぐに向かいます」
志保は開け放っていた窓を急いで閉じ、部屋を後にした。
同じ頃、宿でもちょっとした騒動となっていた。
「いきなり幽閉だなんて、何でまた……」
「前代未聞だぞ? だって、国王夫妻だぞ?」
「で、理由は何だってんだい?」
常連たちが銘々に思ったことを言い合っていた。
「蘭ちゃん、大丈夫? あなたの顔色、真っ青よ?」
早苗に問われ、蘭は我に返った。
「この騒ぎだし、今日はもう帰っても良いわよ?」
「でも、ここのところ休んでばかりでしたし……」
「いいのよ、新一君とも、そういう約束なんだから。忙しい時には頑張ってもらうけど、そうでない時には、好きにしてもいいわよってね?」
早苗は片目をつぶり、笑って見せた。
その笑顔に、蘭の緊張が少しだけ緩んだ。心苦しさを覚えながらも、蘭は早苗の気遣いを素直に受け入れることにした。
「いつもすみません。そして、ありがとうございます」
言って深々と頭を下げる蘭に、早苗は屈託なく笑った。
「なーに、気にしないでちょうだい、ね?」
国王夫妻の幽閉の報が常連客によってもたらされたのは、昼時の混雑が落ち着きを見せ始めた半時ほど前のことだった。
母が王妃に仕える蘭にとって、その報せは母の身にも危険が迫っていると同じ意味合いを持つもので、到底心穏やかにいられるはずが無かった。
一人でアパートに戻ったが、そこに新一の姿は無かった。新一は今朝、アパートに戻って荷物を置いてから蘭と二人で宿を訪れると、落ち着く暇も無いまま、一人外出したままだった。
その新一がアパートに戻ったのは、黄昏も終わりの頃だった。
「新一……」
蘭はソファーから飛び上がるようにして扉へと近付く。思わず発せられたその声は、涙声となっていた。
「大丈夫。国王夫妻もその従者たちも、何らかの危害を加えられたわけでは無いし、単に大聖堂近くの、かつての宮殿に閉じ込められただけのことだから」
「本当に?」
「ああ、それは間違いない」
自信に満ちた新一の話し振りに、蘭はようやく安堵のため息を零した。
新一は蘭を軽く抱き寄せると、その背中を少しの間撫で続けてから、蘭に座るように促した。おとなしく従い、ソファーに腰を下ろした蘭を、改めて抱き寄せた。
「詳しいことはまだわからないのだけど……」
新一は蘭が落ち着くのを待って口を開いた。
「どうやら、先日の司教の暗殺や、有力貴族たちの襲撃を国王自ら指示したのではないかと、疑われているらしい」
「そんなこと!」
「ああ、あの国王に限って、そんなはずがあるわけない。それは俺も堅く信じている。ただ、そう思わない人間も中にはいるんだ。王権神授説を盾にし、保身のために騒動を起こして、議会を最後まで終わらせないように仕向けたのではないかと、浅はかな考えをする輩がな」
「そんな、バカな……」
言った蘭の声に、力は無かった。
「議場での国王陛下のあのお言葉を聞いて、どうしてそんな風に考えられるっていうの?」
蘭の瞳に大粒の涙が浮かぶ。新一はそれを指先でそっと拭った。
「何らかの根拠や証拠があってのことではない。大丈夫、すぐに疑いは晴れるはずだから」
翌日から蘭は一人、仕事の合間を縫って、今は美術館となっているかつての宮殿の様子を見るために通った。旧宮殿はアパートから提無津川を渡って程なくの場所にあり、宿からも昼休みなどであれば、充分に行って帰ってこられるだけの距離だった。
当然、建物の中の様子がわかるはずもなく、それ以前に、厳重な警備がなされており、建物に近付くことさえままならなかった。何をするでも無い。ただ、建物の様子を遠くから眺めるだけではあったが、それでも、すぐその先の建物の中に母がいるはずだと思えば、通わずにはいられなかった。
そして、仕事帰りには、実家のアパートにも立ち寄っていた。小五郎であれば、母のことで何か情報を得ているのではないかと思ってのことだったが、その小五郎とも会えず、ならばと置き手紙を残してみたが、それにも返事は無かった。
新一はその間、宿に顔を出すこともせずに、朝から晩まで各方面に足を運び、情報収集にあたっていた。しかしながら、初日に得た以上の目ぼしい情報にありつけずにいた。
蘭の表情は日に日に不安の色が濃くなり、新一の表情にも焦りと苛立ちの色が見え隠れするようになった、国王夫妻幽閉の報からちょうど一週間後の朝、その報せは何の前触れも無く、突如伝わってきた。それは、国王の嫌疑が晴れ、午後には旧宮殿を離れるというものだった。
昼頃ともなると、情報を聞きつけた野次馬たちで、旧宮殿付近はごった返していた。新一と蘭は街中の喧騒をよそに、阿笠の屋敷近くの森の中にいた。二人から少し距離を置いて、二人の警護のために前田もまた控えていた。
幼い頃からこの森を遊び場として育った新一は、木々の隙間から王宮へ出入りする馬車の車列を確認できるポイントを知っていたのである。
身を潜めてから程なくして、目的の車列が姿を見せる。国王夫妻を含む車列としては、随分と小規模なものだった。新一にしろ蘭にしろ、そのまま王宮へと向かうものだと思っていた。しかしながら、王宮を前にして、車列は進路を変えることとなった。
「離宮に向かったか……」
新一の表情がいつになく曇った。
離宮と言っても、宮殿と呼ぶには程遠い、こじんまりとした屋敷で、下級貴族のそれと変わらない大きさだった。しかしながら、その内装は実に豪華に仕立てられていた。
元々は先代の国王が個人的な時間を過ごすために造られたもので、晩年はプライベートな時間のその多くを愛妾と共に過ごしたという、その存在を知る国民の内、その大多数の人間から無駄遣いの象徴と思われていた、曰くつきの別荘だった。
「まずい状況になったな……」
「え?」
「おそらく、場所を移して、幽閉状態を続けるつもりなんだろう……」
「どうして? 疑いが晴れたんじゃなかったの?」
「ああ、だからまずいんだ。嫌疑が晴れたはずなのに、なぜか幽閉は継続されるとなると、本当は疑惑は晴れたりしていない、と考える者も少なくないはずなんだ。考えようによっては、これまでよりずっと疑いが深まる形になったとも言える……」
「そんな……」
ここ数日の調査で、王宮内のパワーバランスが様変わりしていることは、新一に目には明らかだった。これまでは、現国王を支持する勢力が半数程度はあったはずだが、今ではすっかり少数派となっている。起きた出来事を思えば、それなりの黒幕がいるはずなのが、その正体は未だわからない。その目的もまた、現国王の失脚を狙ってのものなのか、王政そのもの排除を狙ってのものなのか、判断できずにいた。
「嫌疑が晴れたと報じられた以上、国王夫妻の身に危険が及ぶことは到底無いはず。情勢が更に変わり、黒幕が動き出すまで、もう少し様子を見守るしかないのかもしれない……」
新一のその言葉はまるで、自分に言い聞かせるかのように、蘭には聞こえた。
新一はそのまま、深い思考に陥る。蘭の胸の内には不安が募るばかりで、自分にも何かできることは無いのかと焦る気持ちがある一方で、どこか冷静で、推移を見守る覚悟は出来ていた。