4. 雨上がりに

突然、研究室にけたたましく鳴り響いた雑音に、阿笠は思わず実験の手を止めた。半地下となっているため壁の最上部に取り付けられた採光用の窓には、上からも、そして、地面を跳ね返って下からも、まるで打楽器のように雨が激しく叩き付けていた。

「まるでスコールのようじゃのぉ」
「そうね」
しばしの休憩を取ろうリビングに向かうと、そこには志保の姿があった。

「おや、新一君は?」
「彼なら街よ。今日で3日連続。彼女を護衛するためですって」
「彼女って、確か、蘭さんとか言ったかな?」
「ええ。私には、彼女ほどの強さを持ってすれば、街の中は治安が保たれてることだし、護衛なんて必要ないように思うのだけど……。まあ、彼の本心は別のところにあるのかもしれないわね」
「そんなに強いのかね、蘭さんは?」
「あら、話していなかったかしら? 彼女が護身術を身に付けているって。何でも、彼女のお父さんは元警吏だってそうよ」
「元警吏じゃと?」

急に語気を強めた阿笠の姿に、志保は思わず目を見張った。
阿笠もまた、自身の困惑を隠せずにいた。

「どうしたの、博士? 急に大声なんて出したりして。まさか、彼女のお父さんに心当たりがあるとか?」
「あ、いや、その……、ほら、警吏や軍人の護身術と言えば、かなり特殊なものだから。ましてや、その術を身に付けている女性ともなると、この国ではそう多くはないからのう。それで、少し驚いただけじゃよ」
「確かにそうね。私も初めてその話を聞かされた時には、少なからず驚いたわ。でも、あの時の彼女の傷の状態が確かに彼女の実力を証明していたから、すぐに納得はできたけど。あの時はむしろ、新一様の方が傷の状態は酷かったくらいだし」
「あの新一君よりもか?」
「ええ。でも、彼のことだから、当然、彼女を庇いながら戦ったということもあるのでしょうけどね」
「そうかも知れぬのう……。ところで、ワシはまだ、新一君がそれほど気に掛けているというその蘭さんについて、あまり聞かせてもらっていないのだが、志保君の目からはどんなお嬢さんに見えたのか、教えて欲しいのじゃが?」
「そうねえ……、ほら、新一様を見る周りの目は、どうしても好奇なものを見るようなものばかりでしょ? でも、彼女は違っていた。もちろん、新一様のことを詳しく知らないのだから、それも当然なのかもしれない。だとしても、彼女の目はまっすぐに新一様の目を捉えていた。まるで、生まれたての赤ん坊のような、汚れの無いその目で。この先、面白い存在になるかもしれないわね。いずれ、彼女の勇気が試されることになるでしょうから」
「勇気?」
「ええ。彼の正体を知った時に」
(そう。私には到底持つことが出来なかったもの……)

いつの間にか、窓の外には青空が広がっていた。

「ったく、さっきまで雲一つ無く、あんなに晴れ渡っていたっていうのに……」
突然降り出した雨に、街角の軒下に避難はしたものの、頭と足元はすっかりびしょ濡れとなっていた。
(蘭が仕事を終えて店を出てくるまで約30分。さて、どうやって、その間に乾かすべきか……)
そんな風に思案する新一のことを嘲笑うかのように雨は止み、まるで何事もなかったかのように、空は再び雲一つ無い青空へと変わっていた。

「新一―っ!」
不意に掛けられた声に顔を上げると、そこには、今現れるはずのない蘭の姿があった。
おそらく、全力で走ってきたのだろう。新一の元に着く頃には肩で息をしている状態で、その右手にはしっかりとブランケットが握られていた。

「思った通り。もう、こんなに濡れちゃって……、はいこれ!」
差し出された透き通るような右手に、思わず新一は見入ってしまった。

「ほら、早く拭かないと、本当に風邪を引いちゃうわよ?」
「あ、ああ」
ようやく、新一は蘭からブランケットを受け取り、頭から覆い被せる。
何だか今は顔を合わせづらいような気がして、しばらくの間、新一は髪を拭き続けていた。

「仕事はまだ終わりじゃなかったはずだろ?」
「今日はご主人に急用が出来て、早くお店を閉めることになったの。ちょうど、店仕舞いをしている時に雨が降ってきて、きっと、新一が濡れているだろうと思ったから走ってきたのよ」
「そうだったのか……。悪かったな」
「どういたしまして。それより、足元もびしょ濡れだね。もし何だったら、お父さんの服を貸すけど?」
「いや、このブランケットだけで充分だよ。これくらいなら、1時間もすれば乾くだろうし。それに、蘭のお父さんとはこの間のことがあるから……」

それは、四日前、新一と蘭が襲われたその夜のことだった。
新一が蘭を家まで送り届けた頃には、街は完全に日が暮れていた。そんな時間に、一人娘が包帯姿で、しかも、見知らぬ若い男と一緒に帰宅したのだから、父親としては激怒するのも当然のことだった。蘭の父小五郎が、わけも聞かずに新一に飛び掛ったのは言うまでもない。それでも、蘭と新一の必死の説明で何とか納得させることができたのは、結局、1時間以上も経ってからのことだった。

「そのことなら大丈夫よ。あの時だってお父さんは最後にはちゃんと納得してくれたでしょ? それに……」
「それに?」
「うん。それにね、次の日から急に仕事だからと言って、お父さんは朝早くから夜遅くまで家を空けてるんだ」
「今日も?」
「うん」
「そっか。いや、それでも、遠慮しておくよ。本人が居ないうちに借りるのは、やっぱり気が引けるものだから」
「そう……、それじゃあ、せめて、乾くまでは一緒に居させて? どうせ、今家に帰っても一人だから」
「そういうことなら……」

二人、街のシンボルである噴水の正面に位置するカフェへと向かった。二人が席に着く頃には、雨でいったん下がった気温も心地良く感じられるほどになっていた。 夕方に差し掛かり、カフェには次々と人が訪れ、客たちはそれぞれ葡萄酒などを口にしながら大声で談笑したり、煙草をふかしたり、新聞を読み耽っていた。

「同士諸君!」
突然、顎に髭を蓄えた男が、客たちを見渡しながら大声を上げた。カフェが混雑のピークを迎える頃だった。

「たった今、耳にしたニュースだ。東の小国である賢橋公国で市民革命が起き、国王一家は亡命、王政が崩壊したそうだ。貴族や教会、御用商人たちばかり優遇されている我が国も、このままではいずれ崩壊の運命を辿ることになるだろう。誰の言葉だったか、『自然に帰れ』という。それは、人は生まれたままの自由であれ、ということだ。今の我々は何事にも束縛され過ぎているではないか。時代の流れは、この国においても確実に革命に向かっている。王政などではなく、市民の手で国を動かす時代を迎えるのだ。我々が事を起こすにはまだ時期尚早だろうが、間もなく時は来る。その時には我々も行動を起こそうではないか!」

男の姿を、一部の人間を除いて、客たちは冷ややかな目で見つめていた。カフェではもはや、日常茶飯事となっている光景だった。それは、市民の末端にまで、革命への気運が押し寄せてきている証しでもあった。

「どうして? 国王様はついこの間だって、私たち労働者の税金を下げてくれたわよね? 今までも、いつだって私たち国民の方を向いてくれていたというのに、その国王様たちを、あの人たちは追放しようとしてるの?」
「時代の流れだろうな。確かに、現国王は国民の生活を少しでも楽にするために、ありとあらゆる政策を打ち出してはいる。だが、若くして王位に就いたこともあり、貴族などの既得権益を手にする者たちから激しい抵抗を受け、思うような結果が出ていないのも事実。この国の財政状態は、日に日に逼迫の度合いを強めていて、そのしわ寄せが最終的には弱い立場にある国民に向けられてしまう。統治者などというものは、どんなに優れた政策を行ったとしても、結果が伴わなければ、無能と言うレッテルが貼られてしまうものなんだよ」
「あんなにお優しい国王様と王妃様なのに……。でも、どうしてそんなに新一はこの国について詳しいの?」
「本来、貴族階級に生まれた男子は皆、子供の時から、政治学なり経済学なり軍事学なり、それなりに教育を受けているものなんだ。まあ、平和ボケの今、彼らの中にまともに教育を受けたものがどれだけいるのかは疑問だけれどもな」
「そうなの。それじゃあ、同じ貴族の家に生まれたといっても園子は」
「ああ。普通は女は男のすることに口を出すな、という教育を受けているはずだが、もしかしたら、そういった教育すら受けていないかも知れない。鈴木家は貴族の中でも、かなり特殊だからな。現当主の史郎氏は商才に長けていて、早くから子爵の権利をいろいろと放棄して市民との融合を図ってきたという、先進的な考えの持ち主だし」
「本当に何でも知っているのね、新一は」
「まあ、それなりのことは……」

新一は何となく蘭から視線を外した。新一の視線に釣られるように蘭もまた、先ほどの男と彼を取り囲むものたちに目を向けていた。彼らは相変わらず革命の話を続けていた。

「俺はついこの間まで2年余り遊学してきたんだが、確かに様々なところで革命は勃発していたよ。その中には実際に俺の目の前で起こったものもあった。必ずしも全ての革命が成功したと言うわけではないし、たとえ成功したと言っても、結果が革命を起こしたものたちの理想通りになった国はごく一部で、新たな権力争いで、更なる混乱を招いた国がほとんどだった。それらの国も、いずれは落ち着くんだろうけど……。なあ、蘭。俺は彼らの言うように、近い将来、この国にも大きな嵐が訪れるだろうと思ってる。その嵐を出来るだけ早く鎮めて、その後、晴れ渡った空に虹を見るためには、俺は何をすべきなんだろう? 出来ることなら、その虹をあの丘で蘭と見たいと思ってる。そのために、俺はどうするべきか……」
「新一!?」
「あ、悪い。急に小難しい話なんかしちゃって。どういうわけか俺、蘭には何でも話しちゃうらしくって……」
「ううん、私で良かったら何でも聞くから。新一が話してくれることは、私の知らないことばかりで興味があるし、新一やあの人たちが言うようにいずれ革命になるというのなら、私にもできることがあるかもしれないでしょ? 今、王妃様に仕えているお母さんのためにも、その時に間違った判断はしたくないから……」

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