6. 夜が明けて

夜明け前の街はより一層の闇を纏い、静寂に包まれている。
わずかに月光が差し込むステンドグラスの下、蘭は一人静かに祈り続けていた。

「大地君は眠ってしまったようですね?」
「つい先ほどまで起きていたんですが、さすがに疲れが出たのでしょうね。ずっと動き通しでしたから。この小さな体で、その小さな胸を痛めながら……」

礼拝堂の最前列の長椅子で穏やかな寝息を立てて眠る大地の頬に、蘭はその温もりを確かめるようにそっと手を伸ばした。
「きっと、きっと大丈夫だから……」
小さく呟かれたその言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。

「不安ですか?」
「全然心配してないと言ったら嘘になります。でも、新一は必ず大地君のお姉さんを連れて戻ってきてくれると信じてますから……」

漆黒の闇に包まれていた空はいつの間にか、東から暁へとその姿を変えようとしていた。

「先生! 新出先生!!」
「河野さん、それに谷内さんも!」

礼拝堂の中に日の光が届き始める頃、二人の血まみれの男が現れたのを機に、それまで沈黙に包まれていた教会が、一転にわかに騒がしくなる。
河野と呼ばれる男は酷い傷を負いながらもまだ自力で歩いてきたが、谷内と呼ばれる男の意識は朦朧としていた。担ぐように運んできた谷内を直前まで大地が眠っていた長椅子に寝かしつけると、河野はその場にグタっと倒れこむように座り込んでしまった。

「ねえ、おじさん、お姉ちゃんは? お姉ちゃんはどうなったの?」
突然の事態に、いてもたってもいられなくなった大地は、思わず傷だらけの河野に詰め寄った。

「緑ちゃんだっけ? あの娘なら大丈夫のはずだ……」
河野は大きく方で息をする。
「……少なくとも、俺たちが持ち場を離れるまでは……、こちらの人間は誰も死んじゃいねえから!」
「ホント? 本当に?」
「ああ……」
息も絶え絶えで返された河野の言葉に、大地の目から大粒の涙が零れた。

「河野さん、もう喋らない方がいい。あなたもすぐに、傷口の消毒をしなければなりませんから」
「俺は大丈夫だから……、何とか谷内さんを助けてやってくれ! ……谷内さんが一番酷い傷なんだ……」
「わかりました。蘭さん、悪いですが、手伝ってもらえますか?」
「はい、もちろんです」
「先生、僕も!」
「それじゃあ、綺麗な水を持ってきてくれるかい?」
「うん!」

蘭と大地は急いで礼拝堂から奥の水場へと向かった。
いつもなら奥の診療室で治療を行うのだが、次々と運ばれてくるであろう怪我人のことを考え、より多くの人が横になれる礼拝堂を治療の場として用意していたのだ。ただ、水やお湯だけは奥の水場へと取りに行かなければならなかった。

「こ、これは一体?」
谷内の治療を始めようとした新出の手が思わず止まった。服を真っ赤に染めた血液量を考えれば相当な傷を負っていて、今なお、出血が続いていてもおかしくないはずだった。実際、傷はかなりの深手ではあったが、既に応急措置が施され、ほぼ止血していたのである。

程なくして、蘭と大地が両手にそれぞれ水とお湯を抱えて礼拝堂に戻ってきた。
「先生、とりあえず、これだけの量で足りますか?」
「ええ、二人ともありがとうございます」
「あの河野さん、この応急処置は一体誰が?」
「ああ、そいつは……、よお、姉ちゃん……、あんたの彼氏は大したもんだぜ!」
「え!?」
「あいつがいなければ、今回の襲撃もこれほど上手く行かなかったかもしれない……、あいつは俺たちに的確な指示を出しながら、その一方で俺や谷内さん、それに他の怪我人の手当てまでして……、それに、怪我人がゾロゾロとここに戻ってきたら……、すぐに軍隊やら警吏たちに目を付けられるだろうからって、傷の深い人間から時間差を使って戻るようにって言ったのもあいつだ……。ったく……、あの若さでどうしてあそこまでやれるもんだか……」
「新一……」

その後、河野が言ったように、適当に間を空けて次々と怪我人が教会へと戻ってきた。彼らの傷のほとんどには応急措置がなされており、新出の手で新たな治療を施されたのは最初の二十人ほどで、後の者は傷口の消毒と清潔な包帯で巻き直す程度の治療で済むほどであった。

教会に戻ってきた人たちの証言によって、徐々に今回の大渡間監獄の襲撃の様子が明らかになった。
襲撃自体は一時間と掛からなかったという。予想外の真正面からの襲撃で、しかも、休みなく続く銃撃に、監獄の警護兵たちも成す術がなかったようだ。その上、本来ならば、加勢しなければならない周囲の貴族の私兵たちも、監獄を取り囲む城壁に邪魔をされたのか、その姿を見ることは無かったという。当然、この奇襲攻撃に国軍も間に合うはずはなかった。

そして、夜が明ける前には、襲撃に加わった者や不当に牢獄されていた者の内、無傷の者と比較的傷の軽い者は、その場から散り散りとなって去っていった。彼らに一様に教会に戻らないように指示したのも新一だった。

太陽が南中に差し掛かる頃、蘭や新出による治療はようやく落ち着きを見せ始める。礼拝堂の長椅子を埋め尽くしていた怪我人も、手当てが終わり次第、一人また一人と教会を後にし、今は十数人ほどにまで減っていた。

「あとは、山口さんと新一君、それと、緑さんが戻ってくれば……」
「お姉ちゃん……」
「大丈夫よ、もうすぐ、必ず会えるからね」
不安で押しつぶされそうな大地を、蘭は優しく抱き寄せる。蘭にしても不安に思う気持ちは同じだった。新一たちが教会を去ってから既に半日近く経過していたし、一時間近く新たに教会を訪れる人もいなかった。

この頃になると、今朝の米花の北東に隣接する大渡間監獄襲撃のニュースは街中に広がり、蜂の巣をつついたような騒ぎとなっていた。中には騒ぎに乗じて盗みを働く者まで現れ、街の治安は急激に悪化していた。彼らが動揺し、混乱するのも無理もない。二百年以上もの間、戦争はおろか大した内乱もなく、至って平和に過してきたのだから。
この外の喧騒が蘭や大地の心をより重苦しいものへと変え、大地を抱きしめる蘭の腕にも自ずと力が増していた。

外の喧騒が一瞬静まりを見せる。と同時に、礼拝堂の扉が開き、ステンドグラスから差し込む光が蘭たちを包み込んだ。逆光ではっきりと表情は見えないが、間違いなく二人が待ち焦がれていた人の姿がそこにあった。

「お姉ちゃん!!」
「ゴメンね、大地……」
それ以上の言葉が続くはずも無い。叫び声をあげながら大地は姉の胸に顔を埋める。姉の緑もまた、とめどもなく流れる涙を拭うこともなく膝を崩し、ただただ、大地の髪をなで続けていた。

「し、新一……」
「悪い、本当はもっと早く戻るつもりだったんだけど、怪我人の手当てや状況の確認に思いの外、時間が掛かって……」
「ううん……」
心底すまなそうな表情の新一を前にし、蘭の頬にも涙が伝う。

「蘭ちゃんって言ったよな? 済まなかったな、新一のことをこんな時間まで待たしちまって。リーダーの俺が不甲斐ないばっかりに、すっかり新一に頼ってしまったもんだから……」
「どうか謝らないで下さい、山口さん。無事に戻ってきてくれたんですから……。それより、二人とも怪我は?」
「ああ、俺はかすり傷程度だから大丈夫だ」
「新一は?」
「大丈夫、心配ない。前にも言っただろ? 怪我には慣れているからってさ。それより、すみません。谷内さんと河野さんのことなんですが……」
「谷内さんは瀕死の重傷でしたが、一命は取り留めました。河野さんも今は眠っていますが大丈夫です。あなたの応急処置がなかったら、二人とも助からないところだったでしょうが」
「良かった。暗闇の中での処置で自信がなかったもので……」
「え? 暗闇であれだけの処置をですって? 一体、君はどこでそんな術を……」
「身近に優秀な医者がいたものですから、その人から一通り教わっていたんです」
「それって、志保さんのこと?」
「ああ。あれでも俺の主治医だからさ。って、こんな姿を見たら、また嫌味を言われるだろうけど」
「志保さんじゃなくても、嫌味の一つも言いたくなるかも。いつもそうやって無茶ばっかりしてきたんでしょ?」
「蘭?」
「一応、傷口の消毒はさせてよ? そうしないと、私の気が済まないから……」
そう言って新一の腕を取った蘭の瞳から再び涙が零れ落ちた。

襲撃側の死者ゼロ、負傷者七十人余り。
一方、大渡間監獄側の死者二十人余り、負傷者百人以上。
僅か二百人ほどで成し遂げられたこの襲撃が、後の国運を変える大きな一歩となった――――

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