窓の下から絶え間なく聞こえてくる行き交う人々の靴音と話し声で小五郎は目を覚ます。
「知らない内に寝てしまったのか……」
左手に握られていたはずのグラスは、部屋の隅に転がっていた。夜が明けてからも小五郎はしばらく起きていたのだが、飲み続けていた酒の力もあったのだろう、いつの間にか眠りに落ちていたらしい。
半日前、空の赤みが完全に失われる頃、小五郎は暗闇に包まれ、物音一つしないアパートの部屋で、一人呆然と立ち尽くしていた。なぜだかわからないが、この夜、蘭はこの部屋に戻らないような気がした。あの日、あの男が目の前に現れた時から、覚悟は出来ていたのかもしれない。
部屋の明かりも点けぬまま、小五郎は窓辺の椅子に腰を下ろす。その手には酒の瓶とグラスが握られ、黄昏時にはいつも蘭がそうしていたように、窓の向こうを望み続けていた。
日差しが真上から降り注がれる頃、小五郎はアパートを後にする。一部暴徒化した人々を横目に、小五郎は街の中心部へと向かった。
すれ違う人々の言葉に数々に、小五郎の予感は確信へと変わっていく。蘭が昨夜戻らなかったのは、この混乱の元である深夜の大渡間監獄襲撃に深く関わったからに違いないと――――
「お姉ちゃん、美味しい?」
「ええ、とっても!」
「良かったあ! それね、蘭お姉さんに教えてもらって、僕が作ったんだよ!!」
「そうだったの。凄いじゃないの! 本当にありがとうね、大地」
「うん」
誇らしげに頷いてみせる大地の姿に、緑の目からはこの日、何度めかの涙が溢れ出す。
この小さな体にどれほどの悲しみを抱かせたのだろうか?
どれほどの不安を抱かせたのだろうか?
そして、どれほどの絶望を――――
もう二度と会うことも出来ないかもしれないと思っていただけに、およそ二ヶ月ぶりの姉弟での食事も、緑にとっては未だ信じられぬ思いでいた。
二人の食事の間、新一と蘭の姿は礼拝堂の外にあった。
「傷はどう? 痛む?」
「いや、これくらいなら全然平気さ。蘭の手当ても良かったし」
「約束を守ってくれてありがとう。緑さんも戻ってきたことだし、大地君もこれで安心だね?」
「そうだなって言いたいところなんだが……」
「え?」
「あの二人にとってはこれからの方が大変かもしれない。当然、元の家に戻るわけにもいかないし、だからと言って、他に行くあてもないらしい。この街で身寄りも無い幼い弟を抱えた若い娘がまともに働ける場所なんて、ほとんど無いに等しいからな……」
「それじゃあ、あの二人は……」
「しばらくは別々に暮らして、時期を見て、この街から離れた方が良いかもしれない……」
「せっかく、再会できたというのに……」
教会の外では、新たな混乱が生じようとしていた。
その混乱に背を向けるかのように、蘭はその場で振り返る。蘭の視線の先には、屈託の無い笑顔を浮かべる大地と、優しさに満ちた表情の緑の姿があった。
「そうだ! お父さんに頼んでみるのはどう? 町の何でも屋なんて言ってるくらいなんだから、それなりに知り合いは多いだろうし、それに、前は警吏だったんだから、緑さんがもう二度と捕まらないように、何かアドバイスしてくれるかもしれないでしょう?」
「そいつはダメだ!」
「え、どうして?」
「今のところ追っ手は無いようだが、この先、国軍が俺たちの捜索に当たらないとは限らない。今ならまだ、蘭が今回の襲撃とは無関係だと言い張れるが、あの二人の逃亡に手を貸したとなるとそうはいかなくなる。それに、蘭のお父さんまでも巻き込むことにもなってしまう」
「確かに新一の言う通りかもしれないけど……、でも、私だって少しは力になりたいの。ううん、後悔したくないの! きっと、お父さんだってわかってくれるはずよ。だって、ああ見えても人一倍、正義感の強い人なんだから」
「蘭たちにも危険が及ぶことになるんだぞ?」
「ええ、わかってる。だけど、大地君と緑さんがもう二度と、引き裂かれるようなことになって欲しくないの。たった二人の家族がバラバラに暮らすなんてこと、あって欲しくないから……」
「蘭……」
「娘が今まで本当にお世話になりました。それでは失礼します」
最後に自分たち親子の恩人とも言える老夫婦に深々と頭を下げ、小五郎はその店を後にした。
自分の都合で蘭を働きに出し、今度は自分の勝手な判断で仕事を辞めさせてしまった。我ながら、親としての己の不甲斐なさに苦笑せずにはいられなかった。
気が付くと、街の混乱は落ち着きを見せ始めていた。おそらく、治安部隊が武力をもって沈静化を図ったのだろう。人の数こそ先ほどまでとあまり変わらないものの、街の雰囲気は暴力的なものとは変わって、恐怖の色合いを見せ始めていた。それは、かつて警吏をしていた小五郎ですら、感じたことのないものだった。
いつの間にか長くなった影を見て、小五郎は家路を急いだ。
緑と大地の束の間の食事が終えるのを待って、四人は教会を後にした。
先ほどまでとはまるで違う街の雰囲気に、新一は恐怖政治の始まりを意識した。
それが、国王の意思に沿ったものなのか、保身に執着した司祭や貴族たちの独断によるものなのかまではわからない。おそらく、苛烈な弾圧は一時的なものであろうが、この流れが新たな混乱を生むであろうことは容易に想像できる。時の流れが大きく変わろうとしていた。
細心の注意を払いながら人込みの中を進み、四人が蘭の住むアパートに着いたのは、西日が一番強くなる頃のことだった。
新一たちを踊り場に残し、蘭は一度大きく深呼吸をすると、恐る恐る入り口のドアに手を掛けた。
「ただいま、お父さん……」
「おう……」
開口一番で叱責されるだろうと思っていただけに、顔色一つ変えずそう答えた小五郎の姿に、蘭は驚きを隠せず、そのまま戸口に立ち尽くしてしまった。
沈黙を破ったのは小五郎の方だった。
「新一って言ったっけ? お前もそこにいるんだろ?」
まるで蘭を無視するかのように、小五郎は大きな声でドアの向こう側に問い掛ける。突然の呼びかけに、入り口の手前で中の様子を伺っていた新一は、一言も発することが出来ないままドアを開けた。
小五郎と目が合うか否かのうちに、新一は大きく頭を下げる。
「申し訳ありません。今回のことで、どうか蘭さんを責めたりしないで下さい。すべて、僕の責任ですから」
「カッコつけてんじゃねーよ。テメーの言い訳なんぞは聞きたかねぇ。どうせ、今朝の大渡間の襲撃にお前が深く関わってるんだろ? どういう経緯かは知らねーが、蘭もそれに関わったってとこか」
「ど、どうして?」
「なーに、単なる勘さ。っで、何の用だ? ただ謝りに来ただけではないだろ? お前たちが以外にも、階段を上る足音がしたからな」
「うん……。ゴメンね、お父さん。詳しいことは後から話すから、今は急ぎでお父さんにお願いしたいことがあるの。あのね……」
そこまで言って蘭は、踊り場で待機していた緑と大地を部屋に招き入れた。
「実はね、この二人を匿ってもらえるようなところを教えて欲しいの」
「彼女は緑さんと言って今回の大渡間監獄襲撃に図らずも関わってしまったために、今後、追っ手に追われることになると思います。そして、この子は大地君と言って彼女のたった一人の弟なんです。最後まで僕が責任を取るべきなんでしょうが、僕では力不足で……」
「お嬢さん、歳はいくつだ?」
「じゅ、十五歳です」
「で、ボウズは?」
「八歳」
「そっか……。家族はお前たち姉弟だけなのか?」
「はい……」
「さぞ、辛い思いをしてきたんだろうな。どうせ謂れ無き罪で投獄されていたんだろう。それも、たった一人の弟を残してだもんな」
「え?」
「今のあの監獄に、まともな受刑者なんていやしないさ。緑ちゃんだっけ? 投獄される前は仕事は何をしてたんだい?」
「知り合いの牧場の手伝いをしてました」
「牧場の手伝いか……」
そこまで言うと、小五郎は奥の部屋に引き篭もってしまった。
新一たちの表情にも焦りと不安の色が募っていく。
そのままの沈黙が十分ほど続いた。
「蘭、今すぐ大きめの鞄に荷物を纏めろ。お前と俺の服を適当に見繕って、雑貨も少し入れてな!」
「え? あ、うん」
小五郎と入れ替わるようにして、蘭は言われるままに奥の部屋へと向かった。
「さてと。よく聞けよ、新一。お前もすぐにその辺の俺の服に着替えて、蘭の準備が出来次第、お前たちは四人で杯戸に向かうんだ。いかにも兄弟四人で、職を探しに地方から出てきたっていう風に装ってな。今からなら何とか太陽が沈みきる前には着けるだろうから、そのまま今夜は安い宿に泊まれ。そして、そこでさりげなく自分たちは鳥矢に向かってると話せ。鳥矢はこの十年余り、出稼ぎの労働者や移住者を多く受け入れてるからな。だが、実際に向かうのは利善だ。利善には俺が昔世話になった人が今は宿を営んでいて、そこならきっと、姉弟一緒に住み込みで働かせてもらえるはずだ。俺からも二人を宜しく頼むって手紙を書いておいたから。なあ、緑ちゃん、これでどうだろう?」
「あ、はい、ありがとうございます」
「客商売だから時には嫌な思いをするかもしれないが、仕事自体は牧場と比べても大変じゃないはずだよ。大地にも手伝えることがあるだろうし。なあ大地、お前はなりは小さくても男なんだから、しっかり姉ちゃんを守るんだぞ?」
「うん、わかった」
姉弟は先ほどまでの不安な様子が消え、教会を出て初めて安堵の表情を見せた。
「お父さん、こんな感じでどう?」
古びた鞄を抱え、慌てた様子で蘭が新一たちの元に戻る。
小五郎は急いで鞄の中身を確認した。
「これなら仮に中身を見られても疑われないだろう。なあ蘭、お前、利善の鮫島さんのことは覚えてるよな?」
「あ、うん」
「宿の場所も当然わかるよな?」
「ええ、もちろん。今までにも何度か連れて行ってもらってるし」
「いいか、蘭。明日、お前がみんなを鮫島さんのところに連れて行くんだ」
「それじゃあ、鮫島さんの宿に二人を……」
「ああ、そうだ。それと新一、明日の朝、杯戸の宿を出る時には、くれぐれも注意してくれ。鳥矢と利善は全くの別方向だからな」
「はい」
「二人を無事に送り届けたら、今度は駆け落ちでもしたように装え。それなら、お前のようないかにも貴族階級って顔の奴でも、怪しまれること無く移動できるだろう?」
「あ、はい」
「ってことだ、蘭。お前たちが戻ってくるのが、明日の晩になるか明後日になるかはわからないが、戻ってきてからお前の話を聞くから」
「ゴメンね、お父さん。勝手なことばかりして……。それと、ありがとう」
「そんなことより、早く出発しろ。そろそろ、追っ手が来てもおかしくないんだろ?」
「うん」
「じゃあな、頼んだぞ、新一!」
蘭たちの後姿を窓越しに見送ると、小五郎は深い溜め息をついた。
あれは、蘭が産まれる一ヶ月ほど前のことだった。
ある嵐の夜、小五郎は不思議な夢を見たのだ。
産まれてくるのは娘。
しばらくは家族三人で平穏に暮らすことが出来るだろう。
ただし、その時間は決して長くはない。
とても強い絆があるにも関わらず、必ず家族がバラバラにならなければならない時が来る。
まず、母親が家を離れるだろう。
そして、いずれは娘も、蒼い目を持つ男が現れ、共に旅立つことになるだろう。
その男と共に与えられた大きな役割を果たすために。
その試練を乗り越えることが出来なければ、その先、再び家族の平穏な生活を取り戻すことは出来ないだろう――――
元来、小五郎は神だの運命だのと信じるような人間ではない。当然、この予言じみた夢も、当初は全くといって良いほど信じてはいなかった。
ただ、産まれてきた子供が娘だと知った時、なぜだが全身の震えが止まらず、この夢のことが脳裏に蘇った。
その後、しばらくこの夢のことは忘れていたのだが、蘭が二歳の誕生日に、この夢が単なる夢でなかったことを確信することになる。妻の英理もまた、あの嵐の夜に全く同じ夢を見ていたと知ることによって。
それから五年の後、妻の英理は家を離れ、王宮での生活を始めた。
そして十五年が経った今、今度は愛娘の蘭が小五郎の元を離れようとしている。
覚悟をしていたとは言え、課せられた運命を呪わずにはいられなかった。
「なあ、英理、これで良かったんだよな?」
その夜、小五郎は家にあった全ての酒を捨てた。