8. 思い川

柔らかな朝日が城下を照らしていた。
窓の下に広がる景色は一見するといつもと変わらない。
けれど、城内の混乱ぶりを見れば、城下で何か重大な出来事が起きたことくらい、十年来この城を出ること無く仕えてきた英理にも容易に想像できる。
廊下を足早に進む人の流れの中に見知った顔を見つけ、英理は無意識のうちに声を掛けていた。

「目暮近衛隊長、一体、何が起こったのですか?」
「実は……、今朝早く、大渡間の監獄が何者かに襲撃され、囚人たちがみな脱走しまして……」
「あの大渡間監獄がですか? そのことはもう、国王陛下や王妃のお耳に?」
「陛下には先ほど。おそらく、王妃のお耳にも……」
「そうでしたか。お二人とも、さぞご心痛のことでしょう……。私も今すぐ王妃の元に参ります。お忙しいのに、呼び止めるような真似をしてしまい、悪いことを致しましたね、目暮近衛隊長」
「いえ。では私は陛下の元に向かいますので」

太陽は変わることのない優しい光で、街を、人々を包み込んでいる。
その優しさがかえって英理の胸を締め付けていた。
「あの夢の通りになろうとしているのね。どうか無事でいて、蘭……」

大渡間監獄の襲撃から丸二日が経過していた。
この頃になると国の隅々に、そして、近隣諸国にまでこの一大事件の情報は広がっていた。二百年余り太平の世が続いてきただけに、現実として受け入れることができない人々も多く、国全体の混乱は増すばかりだった。

「蘭、大丈夫だから」
「うん……」

この日、夜明けと共に、新一と蘭は利善から米花へと向かう馬車に飛び乗った。
この国での移動手段は馬車や馬の他には徒歩くらいしかないこともあり、馬車にはいつも様々な人々が乗り合わせることになる。この日も農民に法律家、職人、若者に老人や子供・・・。十人ほどが乗り合わせた騒がしい車内で二人は身を寄せ合いながら、車窓の向こうに広がる光景を眺めていた。

各々の町の様子はつい先日までとは一変していた。米花でしか見ることのなかったカフェや広場での演説は、馬車が通り抜けた町の至る所で目にし、革命に向けての気運が国中に広がりつつあるのは誰の目にも明らかだった。

途中の町で一人また一人と減り、米花の手前の町である杯戸に着く頃には、新一と蘭を除いて全ての乗客が馬車を降りた。

「あんたたち、本当にこのまま米花に向かうのかい? この二日、米花を離れるものは多くとも、あんたたちのように米花に向かう人間はほとんどいないんだぞ?」
「ええ、今の僕たちが頼れる人は、米花に住む僕のかつての家庭教師くらいしかいないもので……。あのー、米花は今、それほどまでに危ない状況なんですか? 例えば、街中に軍隊が配備されているとか?」
「いや、襲撃のあったその日は治安部隊が出て、かなり緊迫した状況だったらしいが、昨日と今日は警吏の数がいつもより多いくらいのもんで、軍隊とかそういった類の人間は見かけないって話だぞ」
「そうですか……」

いかにも人の良さそうな御者の目には、新一と蘭が駆け落ちをしてきたとしか見えていなかったのだろう。馬に水を飲ませて休ませている間、二人にも馬車を降りるように促したかと思うと、一言二言と励ますように言葉を掛け、おそらく御者の妻が作ったのであろう焼き菓子までを分け与えた。

「一昨日の大渡間監獄の襲撃以来、米花はすっかり変わってしまった。いや、米花だけではない。この杯戸や他の町も同じだ。俺は二十年以上も御者をしてきたが、国中がこんなにもきな臭い空気で満たされたのは初めてのことだ。一体この先、この国はどうなってしまうんだろうなぁ……」

二人を乗せ、馬車は再び米花に向け走り出した。
車内に二人きりとなってからも、新一と蘭は相変わらず肩を寄せ合っていた。それは、御者の目を誤魔化すためであると同時に、二人の会話を御者に聞かれないようにするためでもあった。

「昨日今日の各々の町の様子やそうだし、さっきの御者の話の通りなら、おそらく、軍は襲撃犯の追及を諦めたみたいだな。楽観はできないが、俺や教会のことなんかも、まだ知られていないはず。大丈夫だ、蘭。少なくとも、蘭や大地たちには追っ手の心配はないだろうから」
「ホント?」
「ああ。あのさ、蘭。前に俺は、この先何をすべきか迷ってるというようなことを言っただろ? 前々からこの国にも近々革命が起こるだろうと予想していたが、それが成功するかどうかまでは自信を持てなかったんだ。でも、今回の襲撃とその後のこの国の対応で確信したよ。俺がすべきことと革命の成功を」
「それじゃあ……」
「ああ。既得権益を守ろうとする奴らの抵抗は激しくなるだろうが、国王には自らの王政を何が何でも守り抜こうっていう気は無いようだからな」
「どうして、そんなことまでわかるの?」
「簡単なことさ。襲撃から丸二日を経ても一度も国王直属の軍が動くことがなかったからな。襲撃直後にあの精鋭部隊をもってすれば、実行犯を特定することも可能だったはずなのに」
「そうだとすると、国王様は一体何をお考えで……」
「さあな、そこまでは俺にもわからない。でも、もしかしたら国王も何らかの変革を望んでいるのかも……」
「え!?」
「ああ。今さら勝手を言うようだが、これ以上、蘭のことを巻き込むつもりはない。これは、俺自身の考えで決めたことだ。だから、蘭もお父さんともよく相談して自身で考えて欲しい。この先も俺と関わり続けるということは、蘭も動乱の中に身を置くことになるのだから」
「それは、場合によっては、もう二度と会えなくなることも考えるようにってこと?」
「否定はできない……」

この言葉を最後に二人は沈黙し、車内はぎくしゃくとした空気に包まれる。
それは二人が出会ってから始めて感じた空気だった。

その後、間もなくして、馬車は米花の入り口に辿り着いた。

「二人とも決して命を粗末にするんじゃないぞ! 必ず幸せを掴み取るんだぞ! 親って奴は、たとえ離れ離れになろうとも、ただただ子供の幸せを祈ってるもんなんだからな!」

最後まで人懐っこい笑顔を絶やすことなく、御者は力強く馬に鞭を入れ、二人の前から立ち去っていった。
新一と蘭は深々と頭を下げ、馬車の姿が小さくなるまで、その場に留まっていた。

この国の王都である米花は城壁に囲まれ、いくつかの城門を通じて、外部と出入りするようになっている。その内の一つの城門をくぐり、新一と蘭は二日ぶりの米花に足を踏み入れた。
御者の話の通り、街に軍の姿はない。いつもより多くの警吏が街を巡回しているが、それもあくまで治安を守るためのようで、襲撃の実行犯探しをしている様子は全く見られなかった。

表向きには街の様子は襲撃以前と変わりは無い。ただ、この国随一のあの活気に満ちた華やかさが失われ、代わりに、この先満ちるであろう狂気さが見え隠れしていた。

街の人々の話す内容に耳を傾けながら、二人は言葉を交わすことも無く、小五郎の待つアパートに足早に向かった。

「おお、戻ったか。緑ちゃんと大地を無事に送り届けてきたようだな」

小五郎は窓枠に肘をかけ、物思いに耽るかのように安楽椅子に座っていた。
二人の無事な様子を確認し、一瞬ホッとした表情を見せたかと思うと、小五郎はすぐに外へと視線を逸らしてしまった。何を見るでもないのだろうが。

「お父さん、ごめんなさい……」
「お二人を大変な危険に巻き込んでしまい、本当に申し訳ありません……」
「別に俺も蘭もお前なんかに巻き込まれたなんて思っちゃいねーよ」
「え?」
「お父さん!?」

二人の驚きぶりを無視し、窓の向こうに視線を向けたまま小五郎は言葉を続ける。

「お前たちが出て行ってから俺なりに調べてみたが、随分と派手にやったやったようだな、新一?」
「まあ、その……」
「最小限の犠牲で、大それたことを成し遂げやがって……。よくやってくれたよ、ホント。こんなんでも、長いこと父親をやってるからな、蘭の性格はよく知ってるつもりだ。こいつは、親の俺が言うのも何だが、子供の頃からしっかり者で、簡単に誰かにたぶらかされたりするような人間じゃない。今回のことも蘭なりに考えてのことだったんだろう?」
「う、うん……」
「そして、おそらく、お前は蘭を巻き込みたくなかったんだが、蘭が考えを変えようとしなかった。どうだ、違うか?」
「ええ……」
「こいつは母親に似て、人一倍頑固なところがあるからな。まあ、そういうわけだから、蘭のことを責めたりするつもりはねーよ。だから、長旅で疲れているところを悪いが、新一、蘭と二人きりにしてくれないか? 蘭に話しておきたいことがあるから」
「でも、それでは」
「一昨日も言ったように、お前の言い訳なんか聞きたいとは思わないし、お前に対して怒ったり、恨んだりといった気持ちもない。お前だって生半可な覚悟で今回の襲撃に加わったわけじゃねーんだろ?」
と問い掛けるのと同時に、この日初めて小五郎は新一の方に向き直った。

「はい、もちろん」
「ならいいさ。お前のその目は嘘は言ってないだろうから。それに、少なくとも、お前はいい加減な気持ちで蘭を連れ回していたんじゃねーことは、あえて怒られに来る必要も無いのに、こうして顔を見せたことでよくわかった」
「……わかりました。それでは、僕はこのまま失礼します」
深々と頭を下げる新一から視線を逸らすかのように、小五郎は再び窓の外に目をやった。

「蘭、今夜は安心してゆっくり眠れよ?」
「うん、ありがとう。新一こそ……」
「ああ」

「この二日、いや三日か、あまり寝てないんだろ?」
階段を下りる音が聞こえなくなるのを待って、小五郎はまだ階下に視線を向けている蘭に言葉を掛けた。

「うん……、私は昨日、少し眠ったけど……、新一はほとんどと言っていいほど寝てないと思う……」
「だろうな……。で、緑ちゃんと大地の様子はどうだった? うまくやって行けそうだったか?」
「うん、鮫島さんも責任をもって預かると言って下さったし、二人ともすぐに馴染んでいたから大丈夫だと思う」
「そうか……」
「ホント、ごめんね? 心配ばかり掛けて」
今度は小五郎の方に向き直った蘭が深々と頭を下げる。

「子供って奴は親に心配掛けてなんぼなんだよ、蘭。その点で言えば、お前は今まで心配を掛けなさ過ぎたくらいだ」
そう言うと、小五郎はそっと蘭の両肩に手を乗せ、まるで小さな子供を諭すかのように言葉を続けた。

「英理が出て行って以来、お前には苦労を掛けっぱなしだったな。だからというわけでもないが、これからはお前の思ったとおり、好きなようにやればいい。たとえ、この先、革命なんかになって、そいつにお前が加わるようなことになったとしても、俺は反対はしない。多分、英理も同じ考えだろう。蘭なら自分でしっかり物事の判断ができると信じているから」
「でも、それじゃあ、お父さんたちの身にも危険がかかることも……」
「なーに、いざとなれば、英理を城から連れ出し、国外逃亡でもなんでもすれば良いだけのことさ」
「そ、そんな……」
「まあ、それは極端な話だが、大丈夫だよ、蘭。英理も蘭も俺が必ず守るから。って、お前はあいつに守ってもらうんだろうがな?」
「え?」
「あいつのことが好きなんだろ?」
不意の質問に蘭は顔を染め、思わず両肩の乗せられた手を振り払うと、小五郎の視線から逃れるように窓辺に向かった。

「そ、それは……、うん、たぶん……」
「たぶんって、おい……」
「自分でもよくわからないの。もちろん、話していて楽しいし、もっと一緒にいたいなとも思う。でもね、何て言うか、好きっていうよりは憧れの方が強いのかもしれないから」
「憧れ?」
「うん。同い年なのに私より色々なことを知っていて、自分の考えもしっかりしていて……」
「そりゃ、あいつは貴族階級の人間なんだし、お前より知識があって当然だろうが」
「ううん、そうじゃないの。私が言いたいのは、知識がどうこうっていうんじゃなくて、知ろうとしたかどうか、自分で考えようとしたかどうかってことなの。お母さんが王宮に仕えているというのに、私はこの国のことも、王室のことも全然知ろうとしなかった。この国が変わろうとしているのに気付きもしなかった」
「でも、それは蘭でなくてもみんな……」
「うん、そうだと思う。だから、惹かれてるのかもしれない。私の世界を広げてくれる新一に……」

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