別役一族の歴史

*         別役村の歴史1              「高知県の地名」 日本歴史地名大系 40

*         別役村の歴史2              「日本地名大辞典」39 高知県

*         別役姓の起源

*         別役三吉郎義重

*         長宗我部元親

*         別役春田

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n         第二編 香美郡 四十.東川 別役氏  pp.147-148

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l         別役(べっちゃく)とは,課役外の別役を以て,地所開拓などをなす義なり。
恰も朝廷別官符を以て地を拓くを別符後別府などといふ如し。
後遂に地名となる,此より興る氏族を別役(べつやく)氏と称す,
訛りて「べっちゃく」と称す。

l         香美郡大忍庄東川,別役城 本姓橘氏或曰在原氏 

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n         苗字を訪ねて三千里            丹羽基二          (横松則広氏の御父堂による)

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l         土佐の姓に別役がある。

l         中世などに役所や荘園などで花園の記録など扱っていた役人で土地開拓をおもに指す。

l         ベツヤクが長い間にべっちゃくと訛って言った時代もあるが現在はベツヤクである。

l         香美郡大忍庄東川に別役城がある。

l         永禄年中(1558-70)に別役三吉郎がいる 城主で(橘代流)(たちばなだいりゅう)

右のことから考えられることは中世の頃荘園などの支配者は,その土地の最強力者
であり,中央からの種々のことをまかされていたが,別役氏も最初は,単なる実力者
であったが,長い歴史の中でその姓が出来,ついには城主にもなって行くのである。

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n         別役三吉郎義重????)〜(????

l         東川・西川別役城主。山間部における長曽我部氏の重臣で、元親に仕えた。

l         香北町東川の豪族で別役城主。別役土居を中心に東別役城、中西川上城、中西川南城等の支城を支配。
長宗我部氏に仕えて東川、西川に五百二十石の土地を領有する。
領地の聖神社の境内に豊後戸次川への出陣のさいに武運を祈って植えられたと伝えられる杉尾の巨木が残る。
無事に土佐に帰還する。長宗我部氏滅亡後は帰農した。

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n         ちょうそかべ【長宗我部・長曾我部】チヤウ‥
姓氏の一。秦河勝はたのかわかつの子孫と伝える。
平安末・鎌倉初め頃土佐国長岡郡宗部郷(高知県南国市)に移り、地名をとって姓としたという。

l         ちょうそかべ‐もとちか【長宗我部元親】チヤウ‥
戦国時代の武将。土佐の大名。宮内少輔と称。国親の子。
一条家を追放して土佐1国を支配、のち四国全体を統一したが、豊臣秀吉に降伏、
土佐1国の領有を許される。秀吉の九州平定および文禄・慶長の役に出兵。
長宗我部氏掟書を定めた。(15391599

ちょうそかべ‐もりちか【長宗我部盛親】チヤウ‥
近世初期の大名。土佐守。元親の4男。
長兄の戦死後、後嗣。関ヶ原の戦では西軍に属したが戦わず帰国、所領没収。
大坂の陣で大坂に入城、戦後捕えられて六条河原で処刑。(15751615

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n         「高知人名辞典」 高知市民図書館 「へ」 p.319

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l         別役 春田 べっちゃく しゅんでん (1855-1910)
日本画家。本名俊男。
安政21012日、高知城下大川筋、別役俊蔵の子として生まれた。
妻駒は寺田寅彦の姉、明治9年より、絵を橋本小霞に学び、その後、川村雨谷についた。同門に寺田寅彦の父
寺田利正もいる。
明治178月第二回内国絵画共進会へ出品する。明治27年,同30年県会議員。
明治43130日没。年56歳。

l         別役 成義 べっちゃく なりよし (1844-1905)
陸軍少将。初め柳馬。
弘化元年1110日、土佐郡鴨部村能茶山 (高知市鴨) に生まれる。
戊申の役には迅衡隊に属して従軍、会津若松城攻撃に功を立てた。明治4年藩兵となって上京、この時高知藩に
歩騎砲工の四科兵があったが、うち工兵は成義の創意訓練したものである。以後日本陸軍の工兵の発達に尽力、
西南の役には熊本籠城、累進して明治23年陸軍少将になって退役。日清戦役には召集されて留守旅団長、北清
事変にもまた召集されて留守旅団長となる。
明治38327日没。62歳。

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