1. |
公園コンセプトの再構築 |
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ア. |
何でも公園、おもしろ公園 これからは公園というコンセプトをどう変えるかということが問われます。公園は一品生産が特徴です。地域が違う、地形も違う。そこに生えている木も違うし、子供が多い地区もあれば老人が多い地区もある。公園のデザインには多様な評価尺度が要ります。美しい公園がいいとは限らない。あるいはアクティブなスポーツ空間でなくてもいい。形も三角でも丸でも長四角でも、帯状でも、川の跡でも、海岸べりでも、農地でも、谷戸の斜面緑地でも、何だって公園にできる。「何でも公園、おもしろ公園」と称しているのですが、公園は社会的なものに対応する非常にフレキシビリティの高い空間です。環境教育、スポーツ、健康、福祉、深く瞑想する宗教的空間でもいい、ディズニーランドのようなアミューズメンタルな空間でもいい、生ごみを埋めたり、土に戻す、地域の街区公園は、環境再生センターにもなる。そこで共同作業をすれば、それは即コミュニティセンターにもなるわけです。 公園は、ありとあらゆる生活行為に全部対応できる。公園という空間はうまく使えば非常に便利な場です。最初は実験公園と称して、市民意識の高いところで工夫し、実績を積み上げていくことが必要です。 |
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イ. |
日本型オープンスペース計画論 マスタープランでは、緑地帯や公園の配置計画をつくりますが、現実の都市は誘致距離の中で動いてはいません。高速道路が通っていれば、そこに川があるのと同じで行けません。適正距離に公園を造ろうとしても用地があるわけではない。そこで、私は出物主義と言っているのですが、病院がつぶれそうだとか、学校が統合して廃校になるとか出物を頂戴する。それから警察署とか役所の構内の庭や駐車場も町の中の広場の一つと考える。これを頂く、借りる。つなぐ。公開緑地とか公開空地を、そう考えればよいでしょう。出物から頂き物、あるいは勝手に使わせてもらうもの、そういうものをつなげて、オープンスペースをつくる。ブロック塀を外して、1メーター5万円出せば生け垣になって、用地買収なしでも緑は増やせるのです。そういうことを総合的にやれば、オープンスペースはできていく。これが私の日本型オープンスペース計画論です。 議論の主題の成熟社会の暮らしやすさは、オープンスペースのみでなく地域の歴史、自然、社会・文化的なストックをすべて地域資産と呼び、評価し、つないで活用していくことで得られるのです。 |
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2. |
管理・運営の時代 |
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ア. |
住民の自主管理の時代 日本型公園のスタートは、鎮守の森もひとつの形だと考えます。先ほどお話したように、昔は、社寺境内地は、その管理や相撲大会や縁日とかのイベントなどの運営も市民によってなされてきたのです。イギリスの公園の発祥はコモンスペースですが、これも実は教会の裏庭みたいなものの共同利用から始まりました。コミュニティができると広場が要るのです。それが公園というものです。そういう原則に立てば、街区公園は、地域の人にとって最も身近なコミュニティスペースです。これをみんなで管理するのは当たり前のことなのです。公物管理は役人が行うという大原則がありますが、いかにして、市が手を引いて住民に渡していくか。これが管理運営時代の公園のあり方だと思います。 |
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イ. |
PFI事業手法の導入 実は現在、私が考えているのはPFIに近い発想です。例えば向島百花園というのは、佐原鞠塢という商人がつくった有料園地です。梅をたくさん植えて、その梅の木も実は他人からの寄付によるものでした。いろいろな文化人が引っ越し記念で植えたのです。春一番最初に咲くのは梅ですから、大勢お客が来るのです。弁当を持ってきて、緋毛せんの縁台を出して、茶を飲ませてお金を取る。楽焼きもやるのです。ソフトウェアはいろいろあるのですが、入場料を取る。今の時代、横浜市の公園でも、この発想を生かし、管理・運営を民間会社と契約し、会社は公園の施設を活用し、喫茶店でもピザハウスでも画廊でもいい、商売をする。市には、使用料を支払うというPFIの事業手法も可能性を広げるでしょう。市税の負担は少なく、サービスの向上は間違いないと思います。 さらに、「パークマスター」という言葉も国の議論の中で印象に残っています。ある一定規模以上の公園に一人パークマスターをおいて、その人が地域の住民と話し合いながら、公園の具体的な運営を行う、そのような人材も公園の活性化には必要でしょう。ともかく、制度も組織も事業手法も既成の概念にとらわれず様々な実験を試行してみる時代です。 |