旬の八千代市(道端の石造物)

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はじめに 1月:飯綱神社下の庚申塔群 2月:郷土博物館付近の庚申塔 3月:春の息吹の馬頭観音群
4月上:椿咲く尾崎の子安塔群  4月中:桜爛漫下の子安講塔  5月:つつじ咲く無縁法界塔 6月:紫陽花咲く庚塚の道祖神 
7月:竹林の中の仏像群(神野) 8月:炎天下の道標馬頭観音 9月:残暑の中の雷神社(麦丸) 10月:地蔵と南無遍路金剛塔
11月上:千葉市境界の庚申塔 11月中:たった一体の石仏が 12月:新川背景の社型石像物 取材を終えて
追加13/8:梨園沿の馬頭漢音      


11月上:千葉市境界の庚申塔
 千葉市から八千代市に入る幕張道路沿いに庚申塔が並んでいる。庚申塔は文字のものが多いが、ここの答申塔は造形のものが並んでいる。一つは青色金剛であろうか。もう一つは猿田彦大伸であろうか。 写真右の石像は古すぎて、何の造形かわからない。造形の庚申塔は文字の庚申塔より古い時代のものと言われている。造形不明の庚申塔はいつごろのものだろう。
 近年に雨から守る屋根が付けられたようで塀で守るように囲まれ、その上に屋根が取り付けられていた。(11月1日 取材)
11月中:たった一体の石仏が
 放射冷却現象で冷え切った空気に性か、太陽があたると暖かさが非常に感じられる朝、八千代市コミュニティーバス(旧ぐるっと号)のバス亭(麦丸)にたった一体の石仏がぽつんと立っている(右写真、矢印)。 拡大写真(左写真)の文様(絵柄)から推測すると子安様だろうか,それとも馬頭観音だろうか。道端の石造物のテーマにあまりにもピッタリにたたずんでいる。 この道は旧道だから移転されずに今まであったのだろう。子安様とすれば誰がどんな思いで建立したのだろう。馬頭観音だとすれば道路の分疑点にも近く、何となく分かる様な気になる。いずれにしても、この類は今までは数体がまとめられたものばかりであったが、今回は一体の石像のみが道端にぽつんと立っていた。石仏左側面には明治四十の文字が読み取られる。(11月25日 取材)
12月:新川背景の社型石造物
 このサイト(新川風景)の「新川と神々」を平成17年に取材した時、「日枝神社」の項で扱ったのが左写真である。今回も取材の対象として旬を待ち続けたが、新川も旬も見出せないままに最終の月となった。原因は現在の右写真を見れば明らかなように背景に竹が茂ったことと木々が新川を隠すほど生長してしまったことだ。道端が解るように手前に道路を入れたため小さな社型石造物になったがわかるだろうか。
 新川を背景に建っている社型の石造物は風化が激しく、何の目的で安置されているのか分からない。ただ、この造りには子安観音塔が多く、観音様が刻まれているものが多いが、この石造物は『お札』を安置してお祈りするための社のように見える。場所は八千代市コミュニティーバス(旧ぐるっと号)のバス亭(麦丸)から城橋上寄りにある。(12月2日取材)
取材を終えて
 紹介出来なかったが、2月の雪の庚申塔群より郷土博物館寄りに子安神社がある。その傍の大きな木々の間に5体の庚申塔群がひっそりと立っている。全てが庚申塔なのは以外とめずらしい。 
 今年のテーマ「道端の石造物」に決めた理由はこの「子安神社」である。ただ「旬」を探しているうちに「旬」が過ぎてしまった。もう一つは田中英雄氏の「里山の石仏巡礼」に影響されたのだろう。田中氏は新川千本桜の会」のHP仲間で、八千代台に住まれている。
 当初は12箇所も探す自信がなく、土地改良碑や出羽三山碑などを組み込む予定で「石塔」や「石仏」の名でなく「石造物」としたが、なんと生活圏内でもこんなにあるとは驚きの一言だ。市内全体にはまだまだあるだろう。日常使用する道端でも神社境内やお寺や墓地内の取材をとりやめも12箇所以上の「信仰に関する碑」を取材でき八千代の歴史の深さに驚いた次第である。
 写真は「はじめに」で使った平戸橋麓にある水難慰霊碑だが、東日本大震災前の写真だったので、震災後の碑を紹介してその地震の大きさを記しておきたい。岩手沖の地震が千葉県八千代市でも至る所に傷跡を残したことを。こんな小さな「石造物」にも被害があったことを。(12月28日)
月毎に順番に取材して行きます。

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