|
|||
|
|||||||||||||||||||||
項番毎に月単位で1年かけて取材予定です。 | |||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||
3月:最後の釣堀 | |||||||||||||||||||||
印旛沼、新川と言えば釣りのメッカでもある。年末年始にも新川での釣り人は絶えない。 昭和30・40年代ごろは釣堀が各所にあったが現在の新川では最後の1件が八千代橋のふもとで頑張っているだけである。 左の写真で「つり堀」の看板が上部左側に映っているのが分るでしょう。その手前が釣堀の全景であり、2面の池も分ると思う。 写真下部の池はつり用の池ではない。つり用の池は中央右側にある。今日はたった一人の釣り人が興じていた。 この釣堀は八千代橋麓にあり、八千代橋の向こう岸側がほんの少しだけ写っているが分るだろうか。この場所から印旛沼の入り口の阿宗橋まで新川千本桜(河津桜)が植えられている。写真では釣堀経営者宅の屋根から右側に開花したばかりの桜木が見えるが分るだろうか。念のため新川側から桜木を入れて、釣堀の看板を写したのが右写真である。 日本の高度成長期に日本経済の成長と共に衰退していった産業の一つで、現在の釣堀の姿でもある。釣堀は水産業ではなくレジャー産業であろう。レジャー産業が多様化・増加して行く中で、釣り人人口も減少しない中で、何故、新川沿いの釣堀がお衰退していくのだろう。釣堀の施設をじっくり観察すると、以外と維持管理が大変そうに見える。また、猛暑の夏、厳寒の冬、台風や大雨の対策などやはり大変である。屋根付きで交通の便利な街中の釣堀が栄えるのも一理がある。ゲーム感覚に近い釣堀だ。自然との戦いを楽しむ釣り人には理解できるだろうか。 とりあえず、新川・印旛沼沿いは釣堀産業の一時代があったことだけに留めたい。(3月19日 取材) |