新 川 風 景 (新川と神々
   

1.水神宮 2.浅間神社 3.巌島神社 4.毘沙門天 5.寿老人 6.熊野神社
7.御岳神社 8.飯綱神社 9.七百餘所神社 10.弁財天 11.日枝神社 12.福禄寿
新川風景を守っているのは神々か?神々は新川風景を守りきれるか?周辺の神々を尋ねて見る。

1.水神宮
 新川両岸の田園風景に続く森林風景が新川の財産であろう。その森林群がビル群に変わろうといているのを懸命に神々が守ろうといている様に見えるが守りきれるだろうか。新川周辺の神々を尋ねながら新川の風景を紹介してみたい。
 新川で一番大きく目立つ鳥居は神尾橋すぐ下流の水神宮(写真:左および右上1から3番目まで)である。この鳥居からの初日の出の風景もすばらいいので水神宮から尋ねてみる事にする。新川沿いの水神宮は少なくとも4箇所以上ある。以上というのは他にもあるかも知れないという意味である。 二箇所目は逆水の水神社(写真:右上から4・5番目)、3箇所目は平戸の水神宮(写真:右上から6.7番目)、最後は八千代中央駅付近の第一萱田緑地の窪みにも水神宮がある(写真:下から1・2番目)。逆水の水神社以外は私の地図に何故か載っていない。
 左上写真の水神宮は印旛沼開拓の土地区画整理によって昭和何8年2月に移転されたものである。元は何処にあったのか昭和61年1月、昭文社発行の地図でも探せない。写真は新川の対岸より撮影したもので、写真右奥に見える橋が神尾橋である。御覧のとおり、この水神宮は社林をもっていない(写真、右上から2番目)。現在の水神宮の脇に左から明治31年・明治24年・昭和11年の水神宮が祭られている(写真、右上から3番目)。その年に何が有ったかは調べきれていない。
 平戸橋・逆水橋周辺にある水神宮の一つは左写真上から4番目で逆水橋と平戸橋間で鳥居が見える逆水・水神社である。もう一つは逆水橋付近から見える対岸の平戸・水神宮である。逆水・水神社は平戸橋から西福寺前をとおり、右折し数分で鳥居があるが、その鳥居には水神社と明記されているのですぐ分る。脇に鳥居記念碑があり、平成七年七月に立替られたことが記載されているが近くの民家の物だろうかドラム缶が記念碑の前に置かれており、ゴミも記念碑にぶつかるまでに詰まれていた。非常に残念なことである。鳥居の前に立つと石段が木立の中へ、上へと続いている。参道の向こうに社殿があり、右側の手洗い鉢には「昭和4年8月 雨乞記念」と刻まれている。
 平戸・水神宮は平戸橋を先ほどの反対方向、平戸の集落方向へ進み、東照寺を右に見ながら少し進むと逆水橋から来る道が付きあたる、更に進むと二股に道が分かれるが、そこの角に水神宮がある。平戸・水神宮には寛政3年(1791年)11月と嘉永6年(1853年)正月の銘がある新旧の石祠は並んで祭られており、その前に「水神社」の額が立てられている。石祠の年号からは新川との直接的な結びつきを見出せない。
 この水神社(宮)が平戸橋または逆水橋を中心に新川の両岸にある理由は新川の歴史に関係するだろうと「史談やちよ」を調べたら「第9号(1984年11月)」の「横戸町・印旛沼堀割工事の歴史と伝承」にこんな記事があった。そのまま紹介する。『千葉は海が近い国だから、おいしい魚が食べられるだろうと、各地から作業員が集まってきました。朝は七ツ時(午前4時ごろ)にカネや太鼓で起こされ、朝食、六ツ時(午前6時頃)に小屋を出て作業場へ向かう。四ツ時(午前10時頃)に小休止、九ツ時(12時)昼食、八ツ時(午後2時頃)に小休止、そして七ツ時に仕事を終えて小屋に帰ってくる。朝夕に神に祈りを捧げて無事を願ったとのことで、柏井の水神様、米本逆水の水神様はそのなごりだと言われております』と。

 水神宮の起源を求めてインターネットで探したところ、『霞ケ浦を見守り続ける水神様』という記事があったので紹介する。『 水神様をまつる目的は、 大きく四つに区分される。 (1)利水の神=安定した用水の確保と感謝。 旱魃の回避と五穀豊穣 (ほうじょう) (2)治水の神=洪水や氾濫など水害防止(3)水難防止の神=水難防止と水難から救われたお礼などをつかさどる神で、 河童信仰とも結び付くのもある(4)舟運の神=航行の安全など祈願する守護神で、 漁民は水難防止とともに豊漁を祈願する。』と。

 萱田の水神宮では「史談 八千代(第21号)」記載の萱田の水天宮(水神宮の間違いと判断)をそのまま紹介すると、『安政6年(1859年)は日照り続きであった。萱田村の名主長岡平左エ門は、自ら願主となって村民一同と共に雨乞いをした。すると、今までの晴天はうそのように見事に雨が降り、豊作となった。その年の11月、ここに水天宮が祀られた。それ以来、ここからはタナヤ(小さい泉)が湧き出て水田をうるおし、生活用水にも使われるほどのきれいな水が噴出したという』とある。
 いずれにしろ、水との戦いの歴史が新川沿いに水神宮を祭り上げてきたと言いそうである。当時の厳しい自然環境が伺える。
 萱田の水天宮は萱田第一緑地公園として緑を守り続けているものの新川からは写真(下から2番目:宮内橋より撮影)のようにビル群に遮られて見えない。平戸・逆水の水神宮は新川風景を守り続けてほしい。その鳥居をゴミの山といている人間には手が出せないらしい。水神様はあくまでも水の神様か。
 ついでに、平戸橋両側にある水難供養塔を調べてみた。西側は現在の平戸橋の麓にあり、長い木柱があるので直ぐ目につく。供養塔は2基あり、右が高さ1mぐらいだろうか、正面に「南無妙法蓮華経水死之霊魂」、右側に「明治三参年八月二五日睦村平戸区信徒中」の銘がある。左は右より若干高く、正面に「南無妙法蓮華経」、左側に「千時明治三十九年八月千部講中」の銘がある。長い木柱は平成8年の供養塔であるから今も供養塔が続けられていることになる(写真右下)。東側の水難供養塔は旧の平戸橋の麓にあり、現在の平戸橋より数5,6メータ下流になる。ここには大小3個の供養塔がある。右が高さ70cm位のの地蔵様を浮き彫りにした寛政9年(1797年)銘のもの、真ん中は高さ40cm位で地蔵様が合掌したもので天保13年(1842年)の銘、左が高さ1m位あり、正面に「南無阿弥陀佛 各水死者霊位」と刻まれている。(写真左下)
 最初の供養塔が建てられてから200年、水に悩まされ痛めつけられてきた農民の苦悩を現在の風景からは想像できないが川岸の石塔や鳥居から学びこの風景を守りたいのは私と神々だけではないだろう。 
 

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