新 川 風 景 (新川と神々
   

1.水神宮 2.浅間神社 3.巌島神社 4.毘沙門天 5.寿老人 6.熊野神社
7.御岳神社 8.飯綱神社 9.七百餘所神社 10.弁財天 11.日枝神社 12.福禄寿
新川風景を守っているのは神々か?神々は新川風景を守りきれるか?周辺の神々を尋ねて見る。

11.日枝神社
 新川両岸の田園風景に続く森林風景が新川の財産であろう。その森林群がビル群に変わろうといているのを懸命に神々が守ろうといている様に見えるが守りきれるだろうか。新川周辺の神々を尋ねながら新川の風景を紹介してみたい。
 
日枝神社は城橋から徒歩で10分程度のところにあり、丁度、先月訪れた弁財天の新川を起点として反対側にあるが新川土手からは残念ながら見えない。城橋の欄干も含めて撮影して見たが欄干が邪魔になるので数メートル離れて撮影したのが左上の風景である。  
 城橋の碑(城橋より5M上流,、写真は左最下段)を左手側にして城橋より街並みを前に進み、突き当たった交差点を右に曲がり、左右に竹林や椿等の雑林と民家のある県道を右手に新川、左手に山の手にしながら地形に沿った左右のカーブを進み7・8分過ぎた当たりの新川側(右手)に小さな水神宮(?)と並んだ二個の石碑(?)の後に新川が見えてくる(写真は左手下から2段目)。そこから数歩進むと、左手に竹林を2分した坂道が開けてくる。その坂道を登ると右側に日枝神社の手水舎が見えてくる(写真、右最上段)。日枝神社前に立って、直ぐ頭を過ったのは「この神社は獅子舞が行われていたに違いない」という信念に近いものであった。早速、図書館に走り調べたところ、1994年八千代市歴史民族資料館発行の「獅子の世界」の17ページに下記の記事があったので紹介しておこう。
麦丸の獅子舞 9月1日に日枝神社と東福院で行われ、現在も頭上げをした後、神社から寺にくるときは獅子を被りミチブエを吹きながら移動します。昔この獅子は豊作祝いのために舞うことから、地主にネング(年貢、小作料)をまけてくれと頼んだがまけてくれないので、中止したことも度々あったと言います。  ここの獅子はナマズジシと言われています。」と
 鎮守の森(写真、右手最下段)の神社前に立って撮影したのが右上の写真。鳥居の神社名の額も立派であり、拝殿(右写真3段目)及び拝殿前の境内の広さから伺えるのは獅子舞が行われていただろうの想像であった。後に回ると本殿は予算不足のためか右写真4段目のごとく仮住まいであり、隙間から本殿を撮影したのが下から2段目の写真である。ひっそりとした鎮守の森(写真、右最下段)に相応しい石碑(写真、左手1,2段目)や拝殿(写真、右手3段目)に対し、本殿の仮住まい(写真、右手上から4段目)ともう見られない獅子舞の歴史が残念である。
 日枝神社は滋賀県の日枝山(比叡山)が最初で『大山咋神(おほやまくひのかみ)を祭神としており、大山咋神の「咋」は「主」という意味で、大山の主であると共に広く地主神として崇められ、山・水を司り、大地を支配し万物の成長発展・産業万般の生成化育を守護し給う御神徳は広大無辺であり、近年は厄除け・安産・縁結び、また商売繁盛・社運隆昌の神として崇敬されているとのことである。
 慶応四年(明治元年)六月十一日以来、日枝神社の称号を用いる事となり、古くから「日吉山王社」「日吉山王大権現社」「江戸山王大権現」「麹町山王」ひろく「山王社」と称され、氏子にとっては「お山」であり、一般には常に「山王さん」の名で親しまれて来た神社とか。
 八千代市内のあちこちにある石碑で出羽三山信仰のものはめずらしくないが、ここ麦丸の日枝神社の石碑は富士山信仰のものが目立った。拝殿に向かって右側手前に大きな石碑があり、日枝神社の他に熊野神社・大雷神社の名が刻まれているがそれらも関係しているのだろうか?碑の後ろ側には「文治2年9月・・・・・」とあったが読みにくいので気にせず立ち去ることにした。
 日枝神社を後に登ってきた坂道を下り、突き当たった県道を左に曲がり、直ぐ右手に曲がると新川へつながるあぜ道がある。5.6分で新川土手に出られる。そこからは対岸正面左手に7月に紹介した御岳神社の石碑と鳥居が、正面右手には10月に紹介した弁財天と米本長福寺が見える。後ろを振り向くと田んぼと後の森林群が新川風景の原点のように堂々とつらなっている。城橋付近から撮影した写真(左手、最上段)は冒頭で紹介した。
 ネングをまけてくれないと豊作祈願の獅子舞さえ中止する神ならば(行政へ意見も申す神ならば)、子孫への引き継ぐべき新川風景の大切さを、獅子舞で訴えてほしいものである。だめなら、歴史に残る獅子舞の休止となろう。
 

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