新川両岸の田園風景に続く森林風景が新川の財産であろう。その森林群がビル群に変わろうといているのを懸命に神々が守ろうといている様に見えるが守りきれるだろうか。新川周辺の神々を尋ねながら新川の風景を紹介してみたい。
宮内橋から真っ直ぐ延びた農道の突き当たり(左写真参照)正面右側に飯綱神社の石柱がある(写真:右下最下段)。その石柱の右側の58段の石段を登ると飯綱神社の鳥居が現れる(写真:右最上段)。 飯綱神社は八千代市の文化財の宝庫でもある。八千代市のホームページでは24項目の文化財を紹介しているが、その中で飯綱神社に関する文化財は「17 飯綱神社の玉垣彫物」(写真:左下最上段)、「18 飯綱神杜鐘楼」(写真:左下2段目)、「19 飯綱神社本殿他」(写真:左下3段目〜最下段)と3項目6点にも至る。八千代市のホームページにリンクを張っておいてので参考にされたい。
玉垣(たまがき)とは神社の神域の周囲にめぐらされる垣のことである。飯綱神社は本殿にめぐらされている玉垣及びその彫刻物も文化財に指定されており、玉垣彫物、玉垣、本殿の写真での区別が示しにくいが左下写真の最上段が「玉垣彫り物」、2段目が鐘楼、3段目が「飯綱神社本殿」で拝殿の奥部にあたる.。その下段の4段目の写真が玉垣の写真であるが本殿も写るので後部から撮影したもので紹介する。5段目が拝殿、最下段が参道石段である。
右側の写真は上から飯綱神社正面(拝殿)、。2段目が境内内にある文化伝承館で、その下が毎年行われる菊花展の模様。上からも下からも4段目の写真が境内にある市指定保全木の銀杏の木。下から3段目は近隣公園にも指定されているので、その入り口付近の写真。
下から2段目の写真がテーマの「新川風景」に戻すための新川風景。満々と湛えられている新川の水の奥に田園が広がり、その奥に左右から迫り来る住宅から、必死に緑を守っている神社林がこんもりと高くなっているのが分るであろう。社そう林中央が伐採されている様に見えるが、土砂崩れ防止工事の後である。お陰様と言っては変であるが、境内からはここから新川を眺めるのも格別である。田植え時期、実りの稲穂時期などは格別であろう(写真は右最下段)。また、八千代親子まつりには花火の見物客では知っている方には大変良い場所で足の踏み場もないほど人が集まるが静かに花火見物できる場所である。花火の新川もまた格別である。この花火見学場所(?)から鐘楼、境内、そして伝承館と続き、その裏が近隣公園になっている。近隣公園は桜の花見も良いが、年中とおして人々に愛されている公園でもある。この公園を突き抜けて道路に出たら、まっすぐ進むと「ゆりのき通りにでる、そこを左折し数分で八千代中央駅が右手に現れる。八千代中央駅から訪問さる場合はこの逆の道を辿って来れば良い。
もう少し角度を変えて飯綱神社について考察する。飯綱神社は、通称萱田権現様または飯綱権現様と言われ、祭神は宇賀之御魂尊(稲荷大明神)とのことで、境内にある鐘楼は身延山、柴又帝釈天と並び称され、かつては時を告げる鐘として地元の人々の日常生活に役立っており、毎月24日に開かれる「権現市」には、近隣の商人が約50軒ほど立ち並び大変な賑わいであったとのことである。「権現」の云われは、戦国時代、萱田の山に太田道灌という無敵を誇った(1469年〜1487年)武将が、米本城攻めのために砦を築いた時分は「萱田の山でした。この山は、後の世に飯綱権現をまつったので、権現山と呼ばれるようになりました」(米本の小さなお城ものがたり:八千代の昔話を発行する会)とあるから、その後でしょうがその時期は、『権現市が24日に開かれるようになった理由は里の長老の枕元に白狐のお告げを聞いたのが元和8年9月24日(江戸中期)で、太田道灌が米本城攻めで戦勝を祈願した十一面観音がお告げとおりに地下より発見されたことで祭日にしたことが始まりだが、その時はすでに権現様として祭られていた。』ということから、権現と言えば東照大権現といて祀られている徳川家康のことで間違いないだろう。とすれば、戦国時代のお話しにも出てくる権現山とは当時は使われてなく、やはり『萱田の山』だったのだろうか。ともかく社そう林を守っておくれ。
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