新川両岸の田園風景に続く森林風景が新川の財産であろう。その森林群がビル群に変わろうといているのを懸命に神々が守ろうといている様に見えるが守りきれるだろうか。新川周辺の神々を尋ねながら新川の風景を紹介してみたい。
毘沙門天は七福神の一神であり、八千代市に於いては八福神の一神である(写真右上)。この毘沙門天は八千代八福神では3月に紹介した巌島神社の門前にある正覚院境内にある。正覚院の参道を右に示す(写真右上2段目))。左手の写真はこの正覚院の墓地・中津郷自治会館等中津郷地区にかけての新川風景で有数の森林を村上橋より撮影したものである。手前の駐車場や「ゆらゆら橋」もピタリと収まる。だが、正覚院や毘沙門天は「新川風景」として写せない。なら、正覚院や毘沙門天側から新川風景をと思い、尋ねて見たが鳥にでもならぬ限り、撮影するには無理があった。
八千代市における八福神の設置については同サイトの「八千代・八福神(http://park17.wakwak.com/~aoki/8fukuzin/8fukuzinn.htm) を参照して頂きたい。正覚院(写真右上から3段目が本堂)は「釈迦堂」(写真右上から4段目)や「おしどり寺(写真は右最下段の鴛塚碑)などで有名で、
八千代のふるさと50景には「花まつり碑」(写真左)が選ばれているほか、八千代の文化財として指定されているのが「木造釈迦如来像」「正覚院釈迦堂」「宝篋印塔」(写真左2段目)などがあるので何が何でも尋ねてほしい寺である。「木造釈迦如来像」は4月8日の「花祭り」の日(釈迦の誕生日、同サイトでは「旬の八千代市:文化を追って」で触れているので参照願いたい)に公開される。また、「宝篋印塔」は墓地内にあるので墓地まで足を運んでほしい。「おしどり寺」については碑の他、本も出版されているので図書館で探しみてはいかがでしょうか。正覚院発行の「おしどり寺ものがたり」の表紙および八千代市発行の「八千代ふるさと歴史・総集録」の表紙と「おしどり寺」のページを左側写真で紹介しておこう。
本テーマ名は「新川風景」の「新川と神々」なので「毘沙門天」について若干ふれておきたい。日本においては四天王の1体として安置される場合は多聞天として、独尊像として安置する場合は毘沙門天としての作例がほとんどとさせる。その他の安置形態としては、毘沙門天を中尊とし、吉祥天(毘沙門天の妃とされる。八千代八福神ではこの吉祥天を加えて八福神としている)と善膩師童子(ぜんにしどうじ)を脇侍とする三尊形式の像(京都・鞍馬寺、高知・雪蹊寺など)、毘沙門天と吉祥天を一対で安置するもの(奈良・法隆寺金堂像など)、毘沙門天と不動明王を一対として安置するもの(高野山金剛峯寺像など)がある。天台系の寺院では、千手観音を中尊として両脇に毘沙門天・不動明王を安置することも多い(滋賀・明王院像、京都・峰定寺像など)とのことである。
毘沙門天の像形は写真(右最上段)の様に、頭に鳥形の冠(三面だての宝冠で、その正面に翼を広げた鳥の姿を表す)、身に甲冑、左手に塔、右手に宝棒を持っているのが普通である。左手の塔は八万四千の法蔵、十二部経の文義を具し、右手の宝棒は悪霊を退散させ財宝をさずけると言われ、また甲冑を身につけているのは魔を寄せつけぬ為とも言われている。七福神の1つに加えられた理由の1つは、勇気を持って悪に立ち向かえば、財をもたらすという性格から出たものであろうと思われる。幸福の神である吉祥天を妻としたところから、毘沙門天も、福をもたらす神としたいう説もあるとのこと。
日本での歴史的な話題では、聖徳太子が物部守屋(もののべもりや)を征討した時、四天王像を造って祈願して戦勝、後に摂津国に四天王寺を造立した・・・・・・ということが記されているように、戦勝護国の仏神としても大いに信奉され、また平安時代、王城守護のために平安京羅城門上に、同京の北方鎮護のために鞍馬寺に、それぞれ毘沙門天が安置された。京都洛北の天狗と源義経で名高い鞍馬寺の兜跋(とばつ)毘沙門天像(軍陣に望む姿。刀八とも書き八本の手全部に刀を持つ像である)や高野山竜光院などの毘沙門天像は、古来から怨敵退散・国土鎮護の霊像と仰がれてきた。四天王の中で単独に信仰されるようになったのも、この鞍馬寺の存在が大きく、京都の北を守る神として意識されて信仰が広がり、武運の神として武将たちが信仰したと言われている。
この毘沙門天が正覚院に安置されている限り、この新川風景は守り続けてくれるだろう。
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