新 川 風 景 (新川と神々
   

1.水神宮 2.浅間神社 3.巌島神社 4.毘沙門天 5.寿老人 6.熊野神社
7.御岳神社 8.飯綱神社 9.七百餘所神社 10.弁財天 11.日枝神社 12.福禄寿
新川風景を守っているのは神々か?神々は新川風景を守りきれるか?周辺の神々を尋ねて見る。

9.七百餘所神社
 新川両岸の田園風景に続く森林風景が新川の財産であろう。その森林群がビル群に変わろうといているのを懸命に神々が守ろうといている様に見えるが守りきれるだろうか。新川周辺の神々を尋ねながら新川の風景を紹介してみたい。
 宮内橋を飯綱神社(先月紹介)の反対側に進むと「切り通し路」に突き当たる。「切り通し路」の崖側に「八千代ふるさと50景」の案内版があるので確認しながら、道なりに5〜6分程度進むと七百餘所神社に出る。神社の前には由来の書いた看板(写真:右4段目)や、突き当たり道路沿いには石柱(写真:右最上段)があるので間違うことはない。村上橋から来るには「浅間神社・巌島神社・毘沙門天」で紹介した県道を登ったり下ったりそのまま進めば20分程度でこの七百餘所神社の石柱にでる。七百餘所神社の社そう林は歴史的にも非常に貴重なものと聞いているが、新川風景としてはヘリでも使用しなければなかなか写せない。飯綱神社・七百餘所神社といえば米本城跡を語らざる得ないのかも知れないが、それはさておき、その歴史の由来の城橋付近から七百餘所神社方面を新川風景として紹介することとした。(左上写真)
 まず、この珍しい「七百餘所神社」という名前の由来であるが、米本城落城の際、村上綱清と家臣七百名がここに逃れて全員自刃したからと伝えられる。古くは七百餘所明神と呼ばれていたが明治元年に現在の神社名に改称されている。創立は800年以上もさかのぼる弘安年間(1278〜87で、祭神は国常立命を祀っている。
 この「七百餘所神社」は市指定の無形文化財である「村上神楽」が引き継がれている。毎年1月15日と10月9日の例祭には衣冠・面をつけた保存会の方々によって笛や太鼓・羯鼓(かっこ)に合わせて舞いが披露される(写真左、上から3段目)。披露する舞台は写真、左最上段であり、その下(2段目)がその歴史的文化財を説明している教育委員会の案内板である。1月15日は大祭で「湯立」という神事が行われる。写真はその下の4段目に示す。この神事は神主が鎌で熱湯を沸かしてその年の豊作を祈り、湯滴を浴びて、そのまま後ろに倒れるのを抱きかかえて社殿に運ぶという珍しいものである。また、湯の音で占いをする例もあるらしく盟神探湯(くがたち)との関係もあると考えられるとのことである。
 この「七百餘所神社」の「そう社林」は非常に貴重な存在であると述べたが、その理由は林として数百年前の原型が保存されていることらしい。記述されている図書が思い出せなく調査中であるが、市指定の保存樹木も多く、その案内版の写真を左最下段に示すことで紹介としたい。その上は神社横すぐ近くから写した林の様子であるが、右写真最上段の道路沿いからの林の雰囲気と合わせて想像して頂きたい。否、想像ではなく、是非、尋ねてみてほしい。確かに倒れた樹木が自然のままにあった。
 「七百餘所神社」はこの村上地区の、[鎮守様」あるいは「産土(うぶすな)様」として代々から引き継がれてきた様子が伺われる。現在も「七・五・三」の行事を大々的に行っているようすで門前にはその案内版も現代風に綺麗に出している。撮影して来なかったのが残念である。
 新川風景がテーマではあるが、この「七百餘所神社」は新川より直線最短距離で数百メートルと非常に近くにあるものの新川よりは見えない。また「七百餘所神社」付近からも新川は見えない。しかし、宮内橋から「七百餘所神社」にくる途中に「八千代ふるさと50景」に指定されている「切り通し路」の案内版があることを冒頭で述べましたが、この「切り通し路」の上が住宅造成のため、土砂崩れ防止工事で林が伐採されたため、新川風景の撮影に絶好場所である。そこで撮影した写真を右最下段に紹介した。田植え後の風景も良いので、あえてその頃の写真を掲載する。また、ここからの富士山の撮影にも良く、冬の晴れた日に挑戦して見てはいかがでしょう。夕方、陽が暮れてから、ぽっかりと浮かぶ富士山も格別である。年に数回しかないチャンスを狙う場所である。
 冒頭の新川からの写真と「切り通し路」の上からの写真を見比べ、新川風景のすばらしさを再認識してほしい。
 

back